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月の宴 華の乱 その三 



その城はあまりにも静かすぎた。
粗方の兵は昨日の合戦で蹴散らしておいたが、まだ城内には城を守っている残党がいるはずだ。
多少の抵抗を見越して騎馬を先頭に切り込む手はずだったが、辿り着いた城門は悉く開かれ番兵さえ見当たらない。

「静か過ぎる」
馬上から山上の城を見上げたのは右近氏の若き長、右近重定その人だった。

騎馬を先導に、周囲を覗いながら城へと続くなだらかな山道を進む大軍は、西櫓曲輪、二の郭を通り過ぎ、ゆっくりと最上に天守を頂く山頂の本郭に迫っていた。
どこからか奇襲があるのではないかと絶えず目を配るが、いまのところ兵たちの前を横切ったのは痩せた犬だけだ。
山の中腹からは少しずつ砦が見え始めたが、どの建物の戸も開け放たれ、検めさせても中には人っ子一人いなかった。
この規模の山城でも通常なら数百人は囲い込めるだけの容量があるはずだが、不思議なことに、ここには人の気配すら感じないのだ。

合戦の後、すぐさま間者を飛ばしてこの山城に通じる一帯の峠道はすべて見張らせたが、逃げる集団がそこを通ったという報は一つもない。
ましてや昨夜は、明るい満月の夜。
万に一つの見落としも有り得ない。
しかし、ここにいたはずの多くの人間が神隠しにあったように、すっかりその存在を消していた。

「まずいな」
重定は心の中で舌打ちした。
この一帯を治めていた相良氏は由緒正しい守護大名で、代々誉れ高い名領主を輩出することで知られていた。必然的に家臣や領民の信頼も厚い。
彼らを完全に感服させ、従わせるには相良の一族の、それも地位のある人間をこちらに取り込む目算であったが、この様子では城はもぬけの殻である可能性が高い。

と、先駆けの偵察兵が戻ってきた。
「申し上げます。この先、天守近くに少数の敵兵が待機しておりますが戦いを仕掛けてくる様子はありません。そこ以外には人の気配すらありません」

天守の前で馬を下りた重定は、数人の供を連れてその入口に向かった。
扉を守るのは僅かに二人の兵のみ。
その兵たちも刀を抜くでもなく、静かに望まれざる客を迎えた。

「右近殿か?」
「いかにも」
「上にてお方様がお待ちになっておられる。お上がりくだされ」


天守の最上層は一辺が二間ほどの小さな板張りの間になっていた。
その中央に白装束の女子が一人鎮座し、周囲を屈強な武士が数名取り囲んでいる。
重定は階段を上りきると、わき目も振らず目指す相手に向かっていった。
さっと居住まいを正し、静かに礼を取る女性。
彼女が今は亡き城主、相良景之の正室であることは一目瞭然だった。

「右近殿、お待ち申しておりました」

その凛とした声、落ち着いた物腰は生まれながらに備わったものかもしれないが、まだ齢は二十歳を越してはいないだろう。 豊かな黒髪、雪のように白い肌、紅を差さずとも薄く色づいた艶やかな唇。
当代の女子たちが欲しがる美しさのすべてを持ち合わせたような端麗な容姿に、重定は暫し見惚れた。

これでは景之が片時も放さず側に置きたがったのも無理からぬことだろう。
相良城主の夫人に対する溺愛ぶりは広く知られていたが、その訳がやっと分かったような気がした。

「城主、相良景之が妻にございます」
座の上下が入れ替わり、上座へと就いた重定に深々と頭を垂れるその姿は、年若いとはいえ立派に一国の領主の妻のものだった。


一通りの儀礼が終わると、まず重定は相良の兵をその場から退けた。
無論、彼らは抵抗したが、それも亡き城主の妻の一声であっけなく収まった。
それを見ただけでも如何に彼らが相良という家を信奉しているかがうかがえた。

「して、ご内室殿、この城内の者たちがどこに消えたのかを教えていただきたい」
追っ手をかけるにしても行き先が分からねば手の打ち様がない。
だが彼女は頑として口を割ろうとはしなかった。

「お教えできませぬ。我が命に代えてもお答えすることはできませぬ」

彼女はこう答えたきり、黙して語ろうとはしなかった。
業を煮やした右近の家臣が、刀の切っ先を鼻先に突きつけても顔色一つ変えず、ただじっと正面に座る新たな城主、重定を睨めつけたまま視線を動かそうとはしない女。

暫くにらみ合いが続いたが、先に根負けしたのは重定の方だった。
「ご内室殿、なぜそこまでして民を守る?そなた置いて逃げた薄情な家臣どもなど庇う理由などないと思うのだが」

その問いに唇の端を少し上げただけの冷たい微笑みを返した彼女はこう斬り返した。
「他国の土地を荒らし、国を広げるしか能のない右近殿には決してお分かりになりますまい」

その痛烈な侮蔑をこめた言葉に周囲の空気が殺気立つ。
だが、重定は気にも留めぬ様子で鈴が言葉を続けるのを待った。

「民は国の宝、臣は家の宝。この家に嫁いでからそう教えられました。彼らは相良の宝なのです。捕われるのを見す見す黙って見ていることなど、できようはずもありませぬ。そう、今ではわたくしも骨の髄まで相良の人間なのです」


夫人を下がらせた重定は、重臣たちと久々に酒を酌み交わした。
この度の合戦は勝利の美酒に酔うにはあまりにも大きな犠牲を払った戦だった。
ただ幸か不幸か、勝ち取った領地の刈り入れ前の田畑や村々を焼くことなく済んだため、臣下に充分な報奨を与えることができそうなのはありがたいことだった。

「御館様、この後いかがなされるおつもりですか」
側近である曽根篤義の問いに、暫し黙した重定は今日のあの場面を思い出して苦笑を浮かべた。
「あの奥方を頂く」
「ずい分と気の強い女子のようですな。さぞご苦労なさいましょうぞ」
家臣の揶揄の込もった言葉に、幾分愉快そうな口調になる。
「易々と手にいらぬものだからこそ、挑み甲斐があるというものよ」


重定は杯を空けると席を離れ縁側に立った。
見上げた空には十六夜の月。
友と酒を酌み交わしたのはほんの数日前のことなのに、もう幾年も過ぎたような気さえする。

「景之殿、これでよいのだな…」
答える友はもういない。
代わりに澄んだ音色の秋の虫たちが、主を失った庭でいつまでもその声を奏でていた。


☆ ひとこと memo ☆
作中で篤義が主のことを「御館様」と読んでいますが、通常は城主は「殿」と呼ばれることが多かったようです。
ただ中には城を造らなかった(持たなかった)人もいたようで、その大名が御館様と呼ばれていたという記憶があります。本作では、殿も御館様もどちらも城主を指す言葉だと思ってくださいませ。




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