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月の宴 華の乱 その二十二 



「殿のご様子は」
再び夫の枕元に戻ってきた鈴が重定を気遣う。
「何度かお方様のお名前を呼ばれてはおられますが…」
意識が朦朧としているのか、重定は時折訳のわからないことを呟き続けていた。

「ここを代わりましょう。そなたは休んできなさい」
侍女と寝ずの番を代わり、重定の側に腰を下ろした鈴は、汗の滲んだ夫の額を冷やそうと桶に布を浸した。
汲んできた水は外気に晒され、凍りそうなくらいに冷たい。
水に浸した手が赤く悴んで痺れるようだった。

「殿?」
何かを呟く声に、鈴が身を乗り出す。
冷えた指を熱い頬に添えると、重定は無意識にその手を掴み自分の方へ引き寄せた。
「鈴…か?」
掠れた声が確かに自分の名を呼んだ。
「殿、お気を確かになさいませ」
手を掴む力の強さに驚きつつも、鈴は彼が正気ではないことに気がついていた。混沌とした意識の中で鈴に何かを伝えようとしているのだろうが、言葉が途切れ途切れで脈略がない。
と、突然はっきりとした一つの言葉が鈴の耳に飛び込んできた。
「…そなた、を…置いて…は死なぬ、ぞ」

「殿?」
信じられない思いで問いかけたが、夫はまた熱にうなされて、何事が理解のできないうわ言を繰り返すだけだった。

だが、鈴はこのとき思いを強くした。
今確かに重定は「私を置いては死なない」と言った。
夫はどんな約束も違わない人だ。
だから、必ず彼は私の元に戻ってくる、と。

「殿、わたくしは何があっても、ここであなたのお帰りをお待ちしています。きっと、きっとお戻りくださると信じておりますよ」
鈴の囁きを聞き届けたように、重定の荒い呼吸がふっと緩む。
不思議なことに、それと共に仄かな部屋の明かりが少し揺らいだように思えた。


それからも鈴は夫の枕元を離れず、夜を徹しての看病を続けた。
祈りが通じたのか、明け方には何とか熱も下がり始め、重定はようやく重篤な状態から脱したようだった。
側で容態を見ていた薬師も暫しの暇を言い、寝所を下がった。
朝日が薄く差し込む頃になると、呼吸も楽になってきたのか、夫の寝息が少し穏やかになった。
額に当てた掌に感じる熱は随分と下がっている。

「殿…良かった」
重定の熱が解けたのを見届けた鈴の瞼が安堵のあまり重くなる。
後で様子をうかがいに来た千代が見つけた時、鈴はその気配にさえ気付かず、重定に寄り添ったまま深く寝入っていた。


それから後、重定の様子を診に再び奥を訪れた薬師は、控えの間で千代に呼び止められた。
「今、御館様はよくお休みになっておられます。いま少し、このまま眠らせて差し上げてはいかがでしょう」
「いや、昨夜のこともあるので、用心のためにもお診たてせねば」
「大丈夫ですよ、お方様が御手ずから看病なされておいでですから」
「しかし…」
「さあさあ、お診たては後で」

ぶつぶつと文句を言う薬師を追い返すと、千代は奥をうかがった。
今、隣の寝所では疲れきった鈴が重定の寝床に入ったまま眠っている。
その身体には、横で眠る夫の逞しい腕が守るように回されていた。
それを見て、千代は小さく微笑むと、細く開けていた障子をそっと閉めたのだった。



悪夢の凱旋からひと月が過ぎた頃、重定は驚異的な回復を見せていた。
まだ肩を使うことはできないが、それ以外の日常のことはほとんど以前と変わらないくらいこなせるようになっていた。
傷口はほとんど塞がり、毎朝膏薬を塗るのも薬師から鈴の仕事に変わった。今朝もいつものように重定の寝床を訪れた鈴は、逞しい肩に残る傷を丹念に清めていた。

「随分と良くなられましたね」
手つきも器用に新しい布をあてがう。

「これしきの傷と言いたいところだが、今度ばかりは俺も冥途を覚悟をした」
覆いを巻いていた鈴の手が止まる。

「殿にしては気弱なことを」
この見るからに堅牢無比な男が、死の床にあったなどと誰が信じられようか。
しかし確かにあの時重定は、生死の境をさまよっていたのだ。
数日に及ぶ切迫した日々の絶望感を思い出すと、未だに身が震える。

「だがな、鈴よ。不思議なことに、あの時景之殿が、俺の枕元に立ったのだ。そして無言でどこかに誘うように手招きした。あの世への引導を渡されるものだと覚悟をした」

何を言い出すのかと、信じられない様子で鈴が夫の顔をのぞき込む。

「ついて行った先は社だった。景之殿が指差す先には何故かそなたがいて、一心に何かを祈っていた。薄衣で、裸足だった」

身に覚えのある鈴がごくりと唾を飲む。

「この夜更けに、こんなところで、それもたった一人で寒い中何をしているのだと諌めようとしたが、何度怒鳴っても俺の声はそなたには届かなかった。ただ、そなたの言葉は俺には聞こえたのだ」
何かを思い返すように、重定が目を閉じる。

「そなたが俺を呼び戻そうと必死に祈っていた。いてもたってもいられず、俺は是が非でもこの世に戻らねばと力一杯足掻いた。そんな俺の背中を、景之殿が後ろから強く押してくれた。そんな気がするのだ…」

重定はそう言うと、鈴の頬を伝う涙を指で拭った。
「気がついた時には目の前にそなたがいた。神の、いや、景之殿の導きだと思ったよ。体中が燃えるように熱くてひどい痛みもあったが、あの時ほど痛みをありがたいと思ったことはない。生きている証だからな」

俄かには信じられない話ではあった。
だが、鈴は思う。
今ここに重定の命あるのは、神仏のお慈悲があったのだ。
そして遣わされた兄、景之もまた、無事に浄土へと渡ることができたのだろう。

「兄上は、殿に何か申しておられましたか?」
「いや、何も。ただ、一言だけ、『生きよ』と聞いたように思う。それが景之殿の声だったのか、それとも天の声だったのかは、今となっては俺には分からぬが…な」




世の中が混沌とし、諸国の群雄が戦に鎬(しのぎ)を削り、己の身と引き換えに名を上げることを夢見ていた時代。
京の都から遠く東の国に嫁いだ一人の女子がおりました。
名前は鈴(すず)。
何度も見舞われた苦難に立ち向かい、民に慕われたその姫君は、国を盛り立て、家を守り、夫に慈しまれながら幸せな一生を送ったと伝えられている。

それは遥か昔、戦国の時代の物語。




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