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月の宴 華の乱 その二十一 



重定が受けた矢は辛うじて急所を外れていたが、負った傷は時と共に悪化していき、容態は悪くなる一方だった。
その間、鈴は夫の枕元で寝起きを共にして、付ききりで世話をし続けた。
熱が上り体が燃えるように熱くなると冷たい水で全身を拭き冷やす。逆に瘧(おこり)に罹ったように震え始めると夜具を増やし、体を擦って温めた。

時折うなされて呟く独り言に起こされて、眠れない日が続く。
主人よりも先に正室が倒れるのではないかと気を揉む周囲の心配をよそに、鈴は献身的な看病を続けた。


重定が床に伏して数日が過ぎたが、調子は良くなったり悪くなったりで、なかなか安定しない。
傷口から悪いものでも入ったのだろうか、熱は一向に治まる気配を見せなかった。
診立てた薬師が「このままではいかに丈夫な御館様とはいえ、体が持たない」と何度も解熱を試みたが、その効用はなかなか目に見える形では現れてこなかった。

その日、昼間から続いた高熱が夜になっても下がらなかった。
重定は時折体を強く痙攣させ、息遣いも苦しげだ。全身から汗が噴出し、冷水で拭き冷やすのさえ追いつかないほどだった。
こんなに具合が悪くなったのは、重定が寝付いて以来初めてのことだ。
薬師も難しい顔で何度も診立てを繰り返している。

「殿は、殿の具合はどうなのですか」
心配で苛立つ鈴に、薬師は「手は打ち尽した」と首を振るばかりだった。
それを見た鈴は急に思い立ったように立ち上がると、その場を侍女に任せ、矢も盾もたまらない様子で座敷を離れた。


しばらくの後、なかなか奥に戻ってこない鈴を心配した千代は、あちこちを探し回っていた。
館中を見たが、どこにも鈴の姿はない。
庭に出た千代は、ふと思い当たり、まさかとは思いつつも地所の端に祭られている小さな社に向かった。

周囲を鬱蒼とした木々で覆われた社は夜ともなると人気が無く、不気味なほどに静まり返っている。
暗がりが恐ろしく、とても女が一人でそこに長居できるような場所ではない。
だが、果たして、鈴はそこにいた。

すでに国中の寺社に領主の平癒祈願が命じられていたが、重定の側を離れられない鈴は、昼間に看病の合間を縫っては、日に何度もこの社に足を運んだ。
そして重定の命を救ってほしいと、ただそれだけを一心に祈り続けていたのだ。

跪いた石段の回りを寒風が吹き抜ける。
吐く息は白く、合わせた手は悴んで小刻みに震えるが、それでも鈴はそこから動こうとはしなかった。

微かな希望の光が見えたと思っていたのに、皮肉な巡り合わせはまたしてもそれを阻もうとしている。
やっと重定と一生添い遂げようと、心を決めたのに。

「お願いです、どうか殿の命をお助けください。もしも…もしも殿が身罷られるならば、今度はわたくしもお供いたします。もう一人ぼっちで残されるのは嫌」

今更神仏に祈ったところで、重定を蔑にし続けた愚かな自分の願いが聞き届けられるかは分からない。だがそれでも鈴は何かに縋らずにはいられなかった。
かつて鈴が長く床に就いた時、夫は彼女を唯一無二の伴侶とし、他の欲を絶って願をかけ回復を祈ってくれた。
それに引きかえ、何も持たない今の自分に投げ出せるものといえば、自らの身命くらいしかない。

殿のためなら、この命を引き換えにしても惜しくはない。

不思議なことだが、この時鈴は、生まれて初めて我が身に確かな価値を見いだせたような気がした。
幼少時は、自分など誰からも構われない要らぬ存在なのだと感じながら育ってきた。
相良に来てからは気負いも手伝い、自らのことは二の次だった。
家を重んずるあまり、それを守らねばという盲目的な執着に取り付かれてしまい、自愛の心を持てなかったのだ。
そして相良を失った時から今までずっと、自らの命など落ち葉一片の重みもないものだと軽んじていた。
しかし今、鈴は自分の命脈を愛する男のために捧げても良いと思っている。
この命は重定の生と引き換えられるものなのだ。
自分はそれだけの価値を持って、この世に存在するのだということに、この期に及んで鈴はようやく気付いたのだった。

それを教えてくれたのは重定、その人。
いつも傍らで鈴を守り、慈しみ、温かく包んでくれた懐の大きな夫だったのだ。

気がつけば、鈴はそこに重定がいるように、社に向かって必死に訴えていた。
あなたと共に泣きたい。
あなたと共に笑いたい。
そしてあなたと共にこれからの人生を生きて行きたい。

お願い、ここに帰ってきて。
私を独りで置いて逝かないで…。


千代が見つけたのは、そんな鈴の後姿だった。
「お方様、もう戻りましょう。御体が冷えてしまいます」
暫くの間、祈り続ける鈴の姿を遠巻きに見ていた千代が声を掛ける。
時間の感覚はとうになくなっていた。
見れば、山裾にあった月が知らぬ間に上の方に昇り、鈴の回りを照らしている。

「そうですね、殿のご様子をうかがわなければ」
鈴は小さく頷くと、最後にもう一度手を合わせる。
そして社に向かって小さく呟いた。
「殿が生きて再びわたくしを望んでくださるなら、その時は必ずや右近重定の妻として、終生、夫に添い遂げる覚悟ができました。どうかお導きください」
鈴は、その誓いを強く胸に秘めた。

もう二度と躊躇ったりはしない。全身全霊をかけて重定に尽くそう。
私の残りの人生は、愛する夫と共にあるのだから。

千代に促され、二人で屋敷へと続く暗い夜道を急ぐ。
心を決めた鈴の顔に宿る表情は、まるで悟りを開いた菩薩のような穏やかささえ湛えていたのだった。




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