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月の宴 華の乱 その二 



各々の家財を持った領民や家臣たちとその家族は、夜陰に紛れて天守下の隠し扉をくぐり、地下へと向かった。
予め世話役たちには、目的に応じて民たちが出る場所を分けさせてある。

合戦の混乱が収まり、次の城主の統治が始まればすぐに自分の田畑に戻りたい農民たちは近くの隠れ家へ。
戦で男手を失った女や子供たちは、糧を得られる尼僧院へ。
そして未だ生死が分からない者を待つもの達は、国境に近いいくつかの仏閣の宿坊へ。

兵農分離が確かでなかったこの時代、領主が変わっても領民たちは支配者が変わるだけでそのまま今までの暮らしができることが慣わしだった。
新たに城に入ってくる者たちも、上納されるものがなくては生活が成り立たないからだ。
その点、下位の兵である足軽農民たちの今後は、田畑さえ取り上げられなければ安泰と思ってもよい。
だが一方、重臣やその妻子を待つ運命は過酷なものだった。
次に来た城主に再度その地で召抱えられれば非常に運が良い方で、中には国を追われ浪人として諸国を流れ歩く者や、高位の家臣に至っては謀反を防ぐために、見つかれば即座にその場で命を取られることさえある。
妻子にしても人質として夫や父親と無理やり離されたり、新たな支配者の下でその家臣たちの慰み者にされてしまうことも決して珍しいことではなかった。
中には捕えた敵方の女子供を、人買いの市を立てて売りさばく者さえいるのだ。


「綾乃、これだけはどうしても聞き分けてもらいますよ」

本郭奥の間では、皆を送り出した鈴が一人の侍女と対峙していた。
彼女の名は綾乃。
鈴よりも八つ年かさの侍女頭だ。
城主である景之の幼馴染で、父はかつて相良の重臣だったが、数年前にすでにこの世を去っている。
鈴が西国から輿入れしてきた時から側付きになり、常に共にいた二人は、傍目から見れば主従というよりはむしろ仲のよい姉妹のような感じだった。
そして、今やいろいろな意味で綾乃は鈴の姉的な存在にもなっていた。

「しかしお方様、私が、私だけが落ち延びることなどできません」
綾乃には西に向かうよう言いつけた。
そこに行けば鈴の既知の者たちが綾乃を庇護してくれる手はずになっている。
「どうかお考えを改めて、お方様もご一緒に参りましょう」
膝を進め、鈴の手を握った彼女は頑として自分だけがここを去ることを受け入れようとはしなかった。

「それはできません。わたくしは亡き景之様に代わって、右近にこの城を引き渡す責があるのです。あわよくば領民たちや家臣たちの今後のことも取り成さなくてはなりません」
「なぜ、なぜそれほどまでに。お方様はまだ十八にもならぬ女子なのですよ」
「綾乃」
凛とした声がその場に響く。
「綾乃、わたくしは御館様の正室としてここに嫁して来ました。けれどそなたも知っているであろう?この身には薄くとも相良の血が流れているのですよ。そして、今となってはそれを繋げるのはわたくしと、そなたしかおらぬのです。どうか、この願いを聞き入れて、すぐにここを発つのです」

それでもその場を動こうとしない綾乃に、鈴は黙って側の文机から二通の書状を出し、彼女に差し出した。
「一通は京の後九条家に、わたくしの母の実家に渡しなさい。きっと力になってくれるでしょう。そしてもう一通は貴女が持っていなさい」
綾乃の手に渡されたのは鈴が認めた書付だった。
許しを得て、その中を確かめた綾乃は息を呑んだ。
「お方様…」
「さあ、これを持って早く下へ行くのです。健やかに過ごすのですよ。生きていればきっと、いつかきっとまた会える。わたくしはそう信じています」


名残惜しそうに、何度も振り返りながら洞窟を下る綾乃を見送った鈴は、残った数人の家臣に命じるとその扉にいくつもの大きな仕掛け石を落とし通路を完全に塞いだ。
これで敵が後を追おうにもこの抜け道は使えない。

すでに夜は更けていた。
すべての城門を開け放たせ、わずかに残った家臣たちを本郭天守の下に集めた。
そして彼女は一人、白装束に身を包み、静かに其の時が来るのを待っていた。
懐には母から受け継いだ守り刀を携えている。
もし皆の前で辱めを受けるようなことがあれば、その場で自害して果てるもよし、敵将と刺し違えるも一興だ。
だが、本音を言えばまだ死にたくはなかった。
この家を、この血を後世に残す道筋がつくのを何としても見届けなければ。
今、確実に相良直系の血を持つのは鈴ただ一人。
せめてあと一年(ひととせ)存えたかった。


すいと立ち上がり、天守を囲む楼へと向かう。
空に見える月の明るさが痛いほどの夜だった。

「今夜は、満月だったのね」

去年の今頃、中秋の名月は城総出の月見の宴だった。
誰かが奏でる笙の音を肴に一晩中皆で酒を酌み交わした。
あの賑わいも今は昔。
はらはらと零れる涙が頬を伝い落ち、握る欄干に染みを作る。
静まり返った山城に、声を殺した彼女の嗚咽だけがいつまでも哀しげに響いていた。


しばらく後、東の空が白み辺りが薄明るくなってきた頃、西の山裾から蹄の音が響いてきた。
隊列を組む多くの足音がそれに続く。
鈴は扉を守る者を除くすべての家臣を天守の最上階に上げた。
その数僅か数人。


時は秋。

相良の城はその日、その主と共に滅んだのだった。



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