「殿にお願いがございます」 夕刻、いつものように奥に来た重定は、久しぶりに鈴の酌で酒を楽しんでいた。 鈴が寝付いてからというもの、彼は度々ここに来て夕餉は取るものの、酒を嗜むことはなかった。 そのような気持ちの余裕はなかったし、鈴のほうも身体が強い匂いに敏感になっていて、酒を側に置くことにさえ嫌悪を感じていたからだ。 暫く前に床上げが済み、今日は久々に夫婦で祝いの膳を取った。 鈴の目覚しい回復振りに、重定は上機嫌で杯を傾けていたのだ。 「何だ、申してみよ」 酒の入った重定は鷹揚に構えている。 めったに強請りごとなどしない鈴の頼みならば、何でも聞いてやるつもりだった。 「わたくしを、北の国境にある尼僧院にやっていただきたいのです」 「僧院に『詣でる』ではなく『遣る』とな?」 ひくりと片方の眉が上がり、訝しそうな目が鈴を捉える。 「如何なる理由で、何ゆえそのような場所に赴くのだ?」 急に機嫌が悪くなった重定に、内心苦笑いしながら鈴が答える。 「髪を下ろして御仏にお仕えしとうございます。 わたくしは右近に入った身、もとより相良の菩提を弔う訳にはまいりませぬが、せめてこの世に産み出してやれなかった子の成仏と、このお国の安寧を祈ってこれからの余生を過ごしたいと思うのです」 「できぬ相談だな」 重定は乱暴に杯を置くと、側にあった膳を払いのけ鈴の前に詰め寄った。 「言ったはずだ。俺の室は終生そなたのみだと、神仏に誓ったのだぞ」 それを聞いた鈴が哀しげに首を振る。 「ですが、殿、わたくしにはもう子は成せぬかもしれないのです。殿には…右近にはどうしてもお世継ぎが必要です。 わたくしがここを去り、出家いたせば死んだも同然。殿は御仏との約束を違うことなく、新たに健やかな子を生せる奥方様をお迎えになれましょう」 先の流産で傷ついた胎はなかなか癒えず、今後子を授かるのは難しいかもしれないことは重定も薬師から聞かされていた。 無論、そのことを鈴に告げるつもりはなかったのだが、どこからかその話が妻の耳に入ってしまったようだった。 「まだそうと決まった訳ではない。月の障りが戻れば自然と孕むこともあると、薬師はそう申しておった」 「ですが、もしこのまま…」 重定は、鈴の障りが戻り、子が根付けるほどまで体に力がつけば、自然と胎も癒えると信じていた。 それでも子はできないかもしれないことは重々承知しているが、鈴はまだ十八、希望を捨てるには若すぎる年頃なのだ。 「暫く辛抱いたせ。物事は必ずや良い方へと向かう。仏に縋るならそれを祈るがよかろう」 「殿は、本当にそれでよろしいのですか。ご自分のお子を持てるのに、わたくしに関ったばかりにそれをふいにするかもしれないのですよ」 微かに震える細い肩を抱き寄せると、彼の大きな体が鈴を包み込んだ。 「何度も言わせるな。俺がそう決めたのだ」 鈴は何も言わなかった。 ただ自分の小袖にすがる小さな手に力がこもるのを感じた重定は、その仕草に安堵の表情を浮かべたのだった。 暫くの後、鈴の身体に待望の障りが戻ると、重定は再び鈴の寝所を訪れるようになった。 すでに馴染んだ体は重ねるたびに喜悦を増し、以前よりもはるかに深い情愛をもたらした。 微かな吐息一つで互いの思いを察し、小さな震え一つで相手の悦びを感じる。 閨という隔絶された世界の中で、二人はただ互いを求め合った。 そこには敵味方も、勝敗も主従もない。 あるのは絡まるように引き寄せあう男女の様だけだった。 穏やかな日々はあっという間に過ぎて行き、季節は夏から秋へ、そして東国の厳しい冬へと向かっていた。 今年は秋の刈り入れ前に来た台風とそれに伴う長雨で、収穫できた穀類は決して多くはなかったが、それでも灌漑に力を注いでいた右近領は何とか冬を越せるだけの出来高となったことに重定と鈴もほっと胸をなでおろした。 そんな折、右近領と旧相良領の間、隣国である戸倉氏の不穏な動きが伝えられたのは、師走を目前にした、ある冷え込んだ朝のことだった。 HOME |