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月の宴 華の乱 その十八 



いつもの年より長く続いた梅雨が明け、夏の日差しが強くなり始めた頃、三月に及ぶ闘病を終えた鈴は床上げを済ませた。
まだ身体に肉はつかないものの、ようやく普通の生活が送れるまでになったのだ。

鈴の回復を見届けてから、久は京へと帰って行った。
また暫くは家の奥向きのことの他に、手のかかる赤子の世話に追われる綾乃を手助けすることになるのだろう。

千代は、相変わらず甲斐甲斐しく鈴の世話を焼いている。
時折、表からの言伝(ことづて)がくると妙にそわそわと落ち着きをなくすようだが、これは定めて篤義が絡んでいるのだろうと慮られた。
それを好機とさりげなく再縁のことに水を向けてみるが、なかなか正直なところを口にしない。
篤義の方はまったく平然と千代に言い寄っているのだが、肝心の千代の心はまだはっきりと定まっていないようだった。

千代のこの後のことが安泰ならば、思い残すことなく屋敷をあとにすることが出来ようものを。
鈴は嘆息を漏らした。
右近に再嫁してから付いた侍女のうち、相良の名残を持つのは千代だけだ。
古馴染みではないが、同じ時期に夫を失い、共に辛酸を舐めた女子同士の繋がりは固かった。
だが、いくら千代が忠義を尽くしてくれたとしても、自分の道連れにしてはいけないことは分かっていた。

私がここを去るまでに、篤義殿が説伏してくださればよいのだけれど。


時はこれより少し遡る。
まだ完全に床から離れることができなかった時期だ。

その日、何とか自分で動くことができるようになった鈴は、庭を歩いていた。
久か千代にでも見つかれば必ず誰かが供として付いてくるが、その時は外に出るまで運よく誰にも行き会わなかった。
長い間臥せっていたせいで足が弱っていることは自分でも感じていたが、過度に手助けをされるのは気詰まりだ。
誰も彼もが、鈴が何かをしようとするとすぐに止めに入る。
特に過保護な夫は、彼女が行李の蓋を持ち上げたのを見ただけでも侍女を呼びつけ、それを取り上げてしまうほどだった。

「まだ無理をしはならぬとあれほど薬師からもきつく言われておるのに、もうそのようなことをするとは」
重定はそう言って咎めるが、鈴にしてみれば自分の道具を片すことなど雑作もないことなのだ。
以前ほど快活には動けないが、別段手足が無くなったわけではない。
心配してくれることはありがたいが、それが過ぎるとかえって気が滅入ってくる。

そんなことを考えながら一人で庭をそぞろ歩いていると、屋敷裏の台所から侍女たちの声が聞こえてきた。
その姦しさに思わず顔が綻ぶ。
奥の座敷も含めて屋敷の中では人目があって、なかなかお喋りをする場所も無いが、台所だけは女の城。
侍女たちも時折、息抜きにここで噂話に花を咲かせていることは鈴も知っていた。

しばらくは壁板越しに漏れてくる取りとめもない世間話を、聞くとはなしに聞いていた。
「お方様のあのこと、知ってる?」
不意に自分のことが話題に上ったのを聞いた鈴は耳を欹てた。
「薬師様のお見立てのこと?」
「そうそう、御館様のところで小耳に挟んだのでけれど…」
侍女たちの話が進むにつれて、鈴は衝撃のあまりよろめいた。

「お方様はもう、ややを産めない身体になってしまったらしいよ」

一見順調に回復しているかのように見えた鈴だったが、その実、胎内に負った傷は思いの外深いという。
薬師が見立てたところでは、元のように戻るかどうかは半々、いやそれ以上に分が悪い状況であることを重定に告げていたというのだ。
故に、今後仮に鈴の体調が戻ったとしても、子を持てる確証はないと。


それを聞いた鈴は、ふらふらと覚束ない足取りでその場を離れると、崩れるように池の縁に座り込んだ。
自分でもひどく身体が弱っていることは感じていた。
子を失ってそろそろ三月。
普通なら月のものが戻ってもよい頃だと聞くのに、一向にその気配が見えない。
久も千代も力づけてくれるが、彼女らも鈴の胎の回復が遅れていることには感づいているようだ。
無論、自分でもおかしいとは感じていたが、ただ治りが遅いだけだと思い込んでいた。
これも倒れる前から身のことを省みることなく、疎かにしてきた罰なのか。
まさか、もう元に戻らないほど、ひどいことになっていたとは。

それを聞かされた夫は何と思っただろうか。
重定とて、あの時ああは言ったものの、自分の血を分けた子供が欲しいに決まっている。鈴が子を産めぬ上に、側室を迎えることもしなければ、彼には生涯自分の子を抱く機会は与えられないかもしれない。
池に湛えられた水面を見ながら、知らずに涙が頬を伝っていた。
自分のような女子に関らなければ、今頃重定は人の子の親となっていたかもしれない。
あの夫のことだ。さぞや幼子を可愛がる子煩悩な父親になっていただろう。
せめて妾を娶り、自らの子を生すことができれば、家人たちに諫言され、苦言を呈されることもないのだろうに。

これから先も、いくら主とはいえ、御家の存続に関ることを自分の一存だけで押し通すことは難しいであろう。
正当な跡継ぎがないゆえに、滅んでいった家はごまんとある。
この乱世、拠り所をなくした者たちは、例え忠臣であっても道を見誤るものだ。

鈴は痛嘆した。
「なんと皮肉なことに…」
かつて自分は子を生さぬがために我が身を削ってきた。それだけでも人の道に外れた罪深いことであったのに、その末に宿った胤までも、彼女の因業によって胎から流されてしまった。
身体を損じ心を痛めて、ようやく気付けた夫の真心。やっと自らの良心に目覚め、行いを悔い改めることができるようになったというのに、今になって罪の裁きを受けることになろうとは。

それにしても、重定はこのことを自分に何と伝えるつもりであったのだろうか。
鈴は自問自答する。
いや、多分何も知らせる気はないのだろう。
夫は、ただでさえ気落ちしている鈴にこれ以上責(せめ)を負わせるような人ではない。
だから敢えて彼は何も言わなかったのだ。鈴にはそう思えた。
だが、その気遣いが返って彼女には辛かった。
いっそのこと、今までの所業を責めて怒りをぶつけてくれた方が、いくらかでも気持ちは楽になれるのに…。

自分がここに居る限り、夫は新たな妻を娶ろうとはしないだろう。
御仏に誓いをたてた以上、安易にそれを反故にする御仁ではない。
一体どうすれば…。
その時、ふとある考えが鈴の脳裏を過ぎった。

―― 出家をして自ら身を引けば、すべてが収まるだろうか。

あれほど多くの人の手を尽くされて生き永らえた身だ。
申し訳なくて、今更自害などできないことは分かっている。
だが、出家して身一つで仏門に入る道を選べば…。
いかにあの剛毅な夫であっても、御仏に仕える女子を自分の側に侍らせるようなことはできないであろう。


重定に惹かれていることを、自分でもやっと正直に認めた矢先だっただけに、辛い決断だった。
この先も、ずっと夫は自分を唯一の妻として慈しんでくれるかもしれない。
しかし自分のせいで重定が置かれる立場の危うさを思うと、とてもそれに甘えることはできなかった。
もう充分なくらい、重定は鈴の気持ちに報いてくれた。
今度はこちらが夫に思いを返す番なのだ、と鈴は自分に言い聞かせたのだった。




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