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月の宴 華の乱 その十七 



ひと月が過ぎた頃になって、ようやく鈴は床から起き上がれるようになった。
とは言っても、食事の時に寝床の上に正座できるようになったという程度のもので、まだ立ち上がり、外に出られるようになるまでには当分かかるだろう。
食事も重湯から粥に変わり、つい先だってからは少しずつではあるが、形のあるものも口にできるようになった。
気が滅入り、泣き暮らした日々は過ぎてゆき、ゆっくりとではあるが彼女本来の姿を取り戻しつつあった。


「姫様、お加減はいかがでしょうか」
開かれた障子の陰から久が声を掛ける。
ここに長逗留するにあたり、奥の寝所近くに小さな部屋を与えられた久は、暇を見つけては鈴の様子を問うてくる。そして必要な時にはいつでも世話が行き届くようにと心を砕いていた。

「久?ちょうど良かった。入っていらっしゃい」
開け放たれた障子の向こうから入って来た久の腕から、鮮やかな青紫の花が顔をのぞかせていた。
「まぁ、美しい。綾目ね」
「お庭に咲いたのがあまりに見事だったので、殿にお願いして頂きましたのよ」

この屋敷の中庭には四季折々に楽しめる花々が植えられている。
風流人だった相良の父が作らせたものだ。
ここに来てからは、季節の花を摘んでは屋敷のあちこちに活けるのが鈴の楽しみになっていた。
今年は春の桜を愛でる余裕もなく、鈴が床に就いている間に藤も花を終えていた。
知らぬ間に、外の世界ではすでに綾目が盛りと咲いているのだ。

脇息に寄りかかり身を起こす鈴の枕元には、重定が取り寄せた干菓子があった。それを分けながら、鈴と久は世間話に花を咲かせる。

「そういえば、綾乃はどうしているかしら。赤子はもう大きくなったでしょうね」
生まれた子供は、久がここに来る時にはまだふた月にもなっていなかった。
この時期の赤ん坊にひと月も会わなければ、顔貌も変わっているだろう。

「それはそれは、丈夫な赤子でしたよ。綾乃殿の乳が追いつかないくらいの大食漢で。きっと立派にお育ちになるでしょうね」
「…兄上の、景之様のたった一人の忘れ形見ですもの」
暫し途切れた会話の後で鈴がぼそりと呟いた。

「綾乃殿も、姫様の急を知るや乳にしがみつく赤子を振り落としてでもここに参じようかという勢いでしたよ。わたくしが参るということで何とか堪えていただきましたが…」
二人が顔を見合わせて笑う。綾乃なら、本当にそのくらいはやりかねないことを共によく知っているのだ。

「久」
突然笑いが途切れ、鈴が遠くを見るような目で話しかける。
「あちらで…都で、もし綾乃に良いお話があれば遠慮なく縁付けるよう勧めてくれますか」
久の驚いた顔に苦笑いをしながら鈴が続ける。
「綾乃はまだ二十路半ば、良いご縁があれば新たな伴侶を持ってもおかしくはない年でしょう。相良の家のために、これから一生を一人で過ごすには若すぎる。赤子が相良の血を継いでくれるのはありがたいことだけれど、あの子にも負わせる責任が重過ぎるかもしれない。
相良にはもう領地も屋敷も家臣もない。もし、名を捨てたいと思うなら、綾乃と赤子に思うようにさせてやりたい」
「姫様…」

落城時に綾乃が持たされた書付には『胎の子は、紛いなく相良景之の胤である』という証が記されてあった。綾乃が京に身を寄せた際に、久もその書状を自分の目で確かめている。
だが、いくら証明になるものがあっても、実益になるものが何もない今の状況では、果たしてその書付にどれだけの価値が認められるのかを測るのは、暗愚なことと言えよう。

「相良は失われたのです。わたくしとて、本意ではなくとも右近に入った身、もう相良の家を守ることはできません。自らにできないことを綾乃たちに無理強いするのは愚かというものです」
そして鈴は諦めの込もった表情で久を見つめた。

『そしてまた、わたくしは、拠り所を無くしてしまいましたね。』

鈴の小さな心の呟きが久の耳には聞こえたような気がした。
それは常々、久が危惧していたことだった。

京に身を置いていたときと違い、ここには重定という頼るべき立派な夫がいるというのに、鈴は心に抗って彼に靡くことを恐れている。
確かに相良の家で与えられた時間は鈴にとって特別であり、何物にも代え難いことであったことは否めない。
だがそれを失ってなお、自分が愛され、守られているという安心感に支えられた未来への希望を見いだせないと、鈴はこの先何を喜びとして生きていくのだろうか。

「姫様、それは違います」
久が諭すように語り掛ける。
「姫様が綾乃殿に自由を差し上げるのなら、ご自身も御身を心安うされなさいませ。相良の御家に縛られず、右近の殿に添われるなら、必ずや殿は姫様をお守りくださいましょう。これ以上の拠り所がありましょうか。
これからは右近の女子として心を添わせ、殿と起臥を共になさればよいのです」
「しかし…」
「亡くなった母君様を始め、父君様、兄上様…その誰お一人として姫様の幸せを願わなかった方はおられませぬ。姫様がお幸せになられるならば、たとえ相手が相良を滅ぼしたお方であろうとも、誰も不服は申さぬでしょう」
「しかし、わたくしは皆と一緒に逝きたかった。ただ一人残されるくらいなら、いっそあの時、兄上たちの後を追えばよかった…」
「確かに姫様はお一人だけ永らえられた。でもそれは決して悲しむことではありません。今ここに身あるのも、先に逝かれた皆様のご加護があってのことなのです。
だからこそ、これから先は皆様の分も生きて、幸せにならなければなりません。
それが姫様に課せられた務めなのではありませぬか」
「久…」
「父君様や兄上様も、姫様が右近殿とお幸せになられることを望んでおられると存じますよ」


その夜、鈴は眠れないまま床の中で何度も久の言葉を思い返していた。
今まで拘ってきた相良の責を捨て、右近の女子として生きる。
一人の女として家を守り、重定の子を産み、育てる幸せをつかむことが今の自分にできるのだろうか。

鈴には分らなかった。


☆ ひとこと memo ☆
戦国時代、武士の屋敷の庭は今のように庭園ではなく、畑であることが多かったようです。
今のように物資が豊富でなかった時代、庭にはできるだけ食料となる畑作物や果樹、食用になる木の実を植えて糧の足しにしていました。
客人の目に触れるところには多少、景観の良いものを配していたようですが、やはり実用本位が基本だったようですね。
今では考えられないくらい広い家の敷地を有していた戦国の武士たちですが、食べるためにはいろいろと苦労もあったようです。
                        ≪ 参考文献:戦国武将への大質問/歴史の謎研究会編 ≫




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