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月の宴 華の乱 その十三 



「―― 鈴?鈴姫?」
揺蕩うような意識の中で、遠くから誰かに呼ばれている気がする。

もう仏の御許に辿り着いたのか。
そう思いながらも、どこかで自分をあざ笑うもう一人の自分がいる。

いや、私のような罪深い者が御仏に召されるはずはない。
きっとあれは地獄の門番が自分を呼んでいるのだ…。



身体が重い。
まるで巨大な重石が上から乗っているようだった。
頬を撫でられ名を呼ばれているのが分かったが、瞼に力が入らず目開けるだけでも一仕事だ。

「鈴、気がついたのか?」
ぼんやりとした視界の中に自分をのぞきこむ、馴染みの大きな姿があった。
「と…の?」
ほとんど声にはならなかったが、唇の微かな動きがそう答えていた。

「ああ、良かった。鈴が正気を取り戻したぞ」
定まらない焦点で辺りを見ると、枕元には重定をはじめ、京にやったはずの千代や懐かしい久の顔までがあった。

「ど、して…?」
その問いに答える者はだれもいなかったが、それを不思議に思う間もなく鈴は再び深い眠りへと落ちていった。


それからどのくらい眠っていたのか分からないが、再び目覚めた時、当りは薄暗くなっていた。
やはり身体は重く瞼は開けづらかったが、先ほどよりも意識ははっきりとしている。

「お方様」
鈴の様子に気付いた千代がのぞきこんできた。
「…お、ちよ?」
喉が渇いているせいか、声がひび割れている。自分の声なのに、耳に膜が張ったように淀んだ音に聞こえた。

「お白湯を含まれますか?」
頷くと、小ぶりな器が唇に当てられた。
「との、は…?」
千代は小さく微笑むと、水の入った器を膳に戻した。
「御館様は今お休みになっておいでですよ。お方様がお倒れになってからというものずっと枕元に付き添っていらっしゃったのですからね」
「そう…」
鈴はそう呟くと、動かない身体に目をやった。
自らの胎が空っぽの虚しさを訴えるように、時折鈍痛を響かせている。
下肢が凍えるように冷たかった。
すべてが虚ろだった。
痛みに堪えて動かした手を下腹に置くと、それを見た千代が耐え切れずに顔を背けた。

あの日の夕方、侍女が夕餉を整えに行き、鈴が暫し一人になった時だった。
床から起き出そうとした鈴は、突然鋭い差込みに襲われた。
下腹が錐で刺されたようにきりきりと引き攣り、体を丸めないと耐えていられないほどひどい痛みだった。
自分のものとは思えない、吼えるような呻き声が口から漏れる。
誰かに知らせなければ…。
そう思い、這いずって床から出ようとしたことは覚えているが、気が遠くなりそのまま意識が途絶えた。多分そのまま途中で力尽きたのだろう。
白い寝床に禍々しいほどの赤い染みが広がっていくのを見たのが最後の記憶だった。

「これで…よかったのかも、しれませんね」
「お方様?」
消え入りそうな声でふと漏らした言葉に千代が訝しい顔をしたが、それ以上鈴は何も言おうとはしなかった。


辺りが闇に閉ざされる頃、枕元に小さな灯を一つともすと千代が寝所を下がった。
ぼんやりとした淡い光が差す部屋で、鈴は一人静かに天井を見つめていた。

御仏は私の願いを聞き入れてくださったのだろうか。
子まで道連れにしたくないという、この愚かな願いを。

全てを捨てて命を絶つ。
その所業に、自分ひとりなら地獄に落ちても仕方がないと思った。
だが自分が堕ちれば罪もない胎の子も道連れになってしまうような気がして、それだけが鈴の気持ちを躊躇わせた。
孕んだと気付いた時から、覚悟を一日延ばしにしていた。
今日になれば明日はと、明日になれば明後日にはきっと…と。

千代を送り出した時も、その身を案ずるふりをして、無事に京に入るまではと自分に言い訳をし続けたのだ。
だが、子は先に召された。
きっと赤子だけは仏様の元へ、浄土へと渡れたのだと信じたかった。

これでもう、後ろ髪を引くものもない。

鈴はそっと上掛けを剥いだ。
体を動かそうにも悲しいほど力が入らない。
何度も起き上がろうとするが、その都度に床に崩れ落ちてしまう。
多くの血を失い、何日も寝たきりだった体は殆ど自由が利かなかった。
それでも彼女は何かに憑かれたように、ある場所を目指した。
その様子を重定が、障子の隙間からうかがっていることにさえ気がつかない。
ゆっくりと体を回し床に腹這うと、部屋の隅に向かって這い始める。
その先にあるのは文机。
その抽斗には、鈴の欲するものがあるはずだった。

何とか机に辿り着いた時、突然障子が開き、重定が部屋に踏み込んできた。
彼は驚きに固まっている鈴の側にしゃがみ込むと、目の前に手の中の物を突きつけた。

「よもや、これを探しているのではあるまいな」

そこにあったのは今、正しく鈴が考えていたもの。
ずっと文机に忍ばせていた丸薬だった。




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