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月の宴 華の乱 その十二 



今にも踊り出しそうな足音、いつもにも増して大きな声、破顔する厳つい顔。
夫はその全身で喜びを表していた。

昨日、ついに胎の子ことを知られてしまった。
いつまでも隠し通せることではなかったが、皆に知られてしまうのが恐かった。
いや、己の胎内に重定の子を宿したという現実に向き合うのが恐かったのだ。


初対面の時、夫を失い、領地を失い、居場所をも失おうとしていた自分には自尊心しか残されていなかった。
自ら命を絶たなかったのは、偏に景之の残したものを見極めたいがため。それが責務だと思っていた。
だがそのために命乞いなどする気は毛頭なかった。

天守に現れたのは、大きな体、大きな声、傍若無人な振る舞いをする男。
何もかもが亡き景之とは正反対、対極といえるくらいの所作。
それが右近の長、重定という人だった。

無骨な彼は遠慮というものがなかった。
何でも思ったことを口にする。しかし一度決めたらやり遂げるまで努力を怠ったりはしない。
それは政においても日常でも、そして寝所でも同じだった。
野蛮な夫に嫁いだ女子は閨で酷い目に遭わされると聞いたことがあったが、新枕の時を除いて重定がそのような振る舞いをしたことはない。

大切にされているのだと思えた。
何がしかの贈り物を持って来たときでさえ、それをぽんと放って行ってしまうのは照れ隠し。
喜べばたちまち嬉しそうな顔をする夫を愛しく思うようになったのは、いつの頃からだろうか。

亡き景之も鈴を慈しんではくれたが、それは家族の情であって男女の愛情ではなかった。
重定に感じるような思い焦がれる感情を男に対して抱いたことは今まで一度もなく、それが鈴を戸惑わせ、躊躇わせた。
彼は相良の仇、右近の長であるという事実をはるかに凌ぐ峻烈な感情。
彼女が初めて知った男女の恋慕だった。

もし、彼が右近の主でなかったら。
もし、自分が右近に滅ぼされた相良の女でなかったら。
重定の腕に抱かれる度に、そう思わずにはいられなかった。

固(もと)より景之の元に来た事を悔やむ気持ちは毛頭ない。
景之はそれまで根無し草のようだった鈴に生まれて初めて居場所を与え、家族と愛情を与えてくれた。
相良という家を守る一人の人間としての誇りを教えてくれたのだ。

だが、戦が家族を滅ぼした。
乱世の習いとは分かっていても、敵将だった右近氏が、重定が恨めしかった。

彼女の居場所を奪い、自由を奪い、身体を奪った男。
重定がこんなにも情深い男でなかったら、ずっと仇として憎み続けただろう。
少なくとも鈴にとっては、その方がずっと楽なはずだった。
けれど何時からか、彼に対して恨みや憎しみではなく、情愛を持ち始めている自分に気付いてしまったのだ。
死んでいった景之や相良の親族、家臣たちを蔑(ないがしろ)にしているようで、そんな自分が許せなかった。
重定を想う気持ちと相良の遺恨の間で心が引き裂かれてしまいそうだった。

亡き景之と今の夫である重定、趣は違えど二人してどちらも遜色ない丈夫だ。
女など人とも思われない時代にあって、嫁いだ二人の夫に共に大切にしてもらえた自分は過ぎたる果報者に違いない。
だが両の夫に慈しまれた分、そのどちらにも身を寄せることができなかった。
片方に組してしまえばもう片方を裏切ることになるのが恐かった。
だから重定に、冷たく心を閉ざすしかなかったのだ。
それでも重定は彼女を大事にしてくれた。
鈴が冷淡な自分の所業を辛く感じるほどに、彼は惜しみなく愛情を注いでくれたのだ。

眦に湧いた雫がこめかみに流れる。
「わたくしは何と罰当たりな女子なのでしょうね」

こんな境涯でなければ、仲睦まじい夫婦になれたかもしれない。
互いに愛し愛され、幸せな家族を作れたかもしれないのだ。
だが、あろうことか鈴は胎の子を恐れ、拒んだ。
右近の期待と、何より相良の禍根を一身に背負う子を自らの胎から産み出すことを自分が赦せなかった。

この子は生まれてはならない子なのだ。

そんな風にしか思えない狭隘(きょうあい)な心を持った女子が、どうして母親になどに成れようか。



千代が無事に京に着いたという知らせが届いた。
文には、数日内にも久を通じて綾乃に目通りできる由が記されていた。
綾乃の子、景之の忘れ形見に懐剣が渡れば、新たな相良の後継の印となる。
鈴は安堵した。
これでやっと本当に、最後の役目を果たすことができたのだ。


夕刻、膳を整えて座敷に入った侍女が目にしたのは、乱れた床にできた血溜まりに、力なく体を丸めてうつ伏せる主の姿だった。

「お方様?…だ、誰か、誰かぁ」
切り裂くような悲鳴が辺りに轟き、屋敷は一瞬にして恐慌をきたしたのだった。




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