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月の宴 華の乱 その十一 



「まだ目覚めぬか」
朝になり奥の座敷に顔を見せた重定が問うも、寝ずの番をしていた侍女は首を横に振るだけだった。

鈴が生死の境をさまよい始めてから、今日で丸三日になる。
昨日になってようやく出血が止まり、僅かながら助かる見込みが出てきた。
不眠不休で側についていた薬師も、それを見届けて一旦奥から下がった。

鈴の顔にはほとんど血の気がなく、紙のように白い頬に触れるが温かさは感じられない。身動き一つしない身体はまるで屍のようだが、夜具が上下する微かな動きだけが命を繋ぎとめているように見えた。


十日ほど前から床に就いたままの鈴を見立てた薬師から、侍女を通じて懐妊を知らされたのは五日前に遡る。
待ちに待った報せだった。
すぐに側に駆けつけたものの、臥したままの彼女の顔色は冴えず、表情も喜びを感じられるものではなかった。
薬師はまだ悪阻が出るほどの月数にはなっていないはずだと言うが、ここのところ鈴の身体は見て分かるくらい衰えてきていた。

「もっと口に入れないと、身体が持たぬぞ」
ほとんど食事に手を付けず、起き上がることもできなくなっていた妻は口元に持っていった粥を二口ばかり啜ったが、暫くするとそれも吐き戻してしまった。
その後、どうにか白湯を飲み下すと、もう何も食べたくないと膳を下げさせてしまったのだ。

「殿、大事はありませぬゆえご心配なさいますな。どうぞ表にお戻りくださいませ」
言葉では強がっているものの声には張りがなく、微笑みもどこか無理を感じる。

「そなたの胎に居るのは俺の子だ。心配するなと言われても心配になるのは仕方がないであろう?」
この言葉を聞いた鈴が自分の身体を見ながら複雑な表情を浮かべる。
「この子は殿の、右近殿の子なのですね」
「当たり前だ。胎の子は右近の跡目になるやもしれぬ大事な子だ」

分かりきったことだった。
重定の手が付くまで鈴は生娘だった。そして現在、この奥に入れる男は主以外にいないのだから、他の胤が入ろう余地はない。

夫婦にとって子は鎹(かすがい)というが、この子の誕生はそれ以上のものを齎す。
仮に男子が生まれれば、子は右近の跡継ぎとなる。その子を持ってすればまだ敵愾心が燻る相良の家臣を押さえ込めるし、母方からは宮家、摂関家への橋渡しもできる貴重な存在となるのだ。
もちろん、一番大きな利得は未だ心を開かない妻と自分を結ぶ確かな絆ができるということだ。
夫には頑なな鈴といえども、腹を痛めた子は拒めないだろう。
自分が右近の女子であることを拒み続ける彼女には、そうしてでも現実を受け入れさせるしかあるまい。

「そう、この子は右近の…」
苦しみと哀しみ、そして少しばかりの切なさ。
その時歓びに舞い上がっていた重定には、鈴の声に潜むものを見抜けなかった。
だから別段に常時、侍女を付き添わすことも考えなかったのだ。
迂闊だった。



正室の懐妊という知らせが城内を駆け抜けた翌日、領地の検分のため屋敷を離れた重定は遠方、右近の本領内にいた。
相良と国一つ挟んで隣り合う自領は肥沃な田が広がる一方、領内を流れる大河の氾濫が時折大きな被害をもたらしてきた。
今までは改修にまで手が回らなかったが、領地が拡大したことでできた余裕を工事に当てることにしたのだ。
完成目前の堤を見た彼は、満足げな笑みを浮かべた。
予定通りなら今年の大雨の時期までに間に合う。これで今まで以上の安定した収穫が見込めるようになるだろう。米の収益が上ればそれだけ国を豊かにする財源ができるし、戦のように急な出費も苦せずして補える。
我が子に残す領地は広い方が良いに決まっているが、それが価値の高いものであれば、なおそれに越したことはない。

その日は、暫くぶりに右近領内の城に戻った。
先の戦で相良の館を得て以来、重定が住居をそちらに移したため、今ここは一門衆が守っている。
ここにもすでに正室が孕んだという報は届いていて、酒宴が用意されていた。

その夜、重定は久々に古くからの家臣たちと寛いでいた。
大きくなっていく領地、整ってきた財の基盤、そしてそれを継ぐ後継も生まれる。
ここしばらくは大きな合戦が起こる気配もない。
この世は全てが安泰に思われた。


館からの早馬が着いたと知らされたのは、宴も酣の夜半のことだった。
その報に耳を欹てる家臣たちを残して、重定は一人玄関へと向かった。

「このような夜半に何事か」
目通りを待つ使者は、言いづらそうに俯いたまま顔を上げようとはしない。

「申し上げます。夕刻のこと、お方様が急な差込みを起こされました。今、薬師殿がお見立てをしておるところでございます。取り急ぎ御館様にお戻りいただくようにと申し付かって参りました」

宴の浮かれた雰囲気は散らされ、館への帰り仕度が始まる。
それさえも待てなかった重定は二、三人の供を連れただけですぐに馬を駆った。
使いの様子で鈴の容態がかなり悪いことが感じられる。
朝出かける時には何事もなかったのに。


館の門前で馬を乗り捨てそのまま玄関を入る。
明け方近いというのに煌々と焚かれた灯り。
その場違いなまでの明るさが、そこにいる者たちの緊張を映し出しているようだった。


☆ ひとこと memo ☆
作中で「薬師(くすし)」としているのは今で言うところの「医者」です。
多分医者とも呼ばれていたと思いますが、敢えて本作中では「薬師」で統一させていただきました。

この時代、一度戦になれば、特に戦場での医師は絶対的に不足します。
したがって専門の「医者」ではなく医学の心得のある者が即席の医師として治療にあたったようです。彼らは「金創医」と呼ばれ、戦場では重宝されましたが、実際はほとんど医学的な知識はなかったようです。

ただ、この頃になると、今で言う温泉治療(湯治)やお灸はあったようで、それが上級武士たちの怪我を癒したのかもしれませんね。
                        ≪ 参考文献:戦国武将への大質問/歴史の謎研究会編 ≫




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