京に着いてはや三日が過ぎた。 今日、千代は後九条家の者の迎えで出かけている。 篤義は一人、右近の別宅でその帰りを待っていた。 右近氏の別宅は京の町から少し外れたところにあった。 お陰で周囲は比較的治安が良く、大火や騒乱に巻き込まれることもない。 この数年で京の都は荒んだ。 舵取り役の将軍がこうも無能で無力だと世の中は乱れ放題で、治まるものも治まらない。 戦乱は国中に拡大の一途を辿り、勢いに乗る戦国大名が名を上げる一方で、滅んでいく者も多くあるのは致し方ないことなのだろう。 「篤義、暇なら一席付き合わぬか?」 声を掛けてきたのは主君の弟君、重尚公だ。 幼少の頃から武術よりも歌や茶の湯、大和絵に興味を示し、元服し初陣を済ませるとすぐにここ、京へと住まいを移してしまった。 本来なら兄の元で領地を治めるのを助けるのが筋なのだが、お家の事情もあってのことだ。 今は朝廷に仕えて官位を得ており、この地を動く理由もなくここに留まっている。風流人の彼には都での暮らしが性に合っているようだった。 「兄上は息災と聞いておるが、御内室殿はその後いかがなされておいでか」 立てた茶を篤義に振舞いながら、重尚が問う。 婚儀から半年あまり、まだ領主の正室に懐妊の知らせがないことを憂う声は、ここ、京の右近屋敷でも聞き及んでいた。 兄より少し前に娶った重尚の妻は、既に身重で年明けにも子が生まれることが分かっている。当然のことながら、本家筋の重定のところに期待がかかるのは止むを得ないだろう。 「今のところそれらしい噂はききません。皆が待ち望んでいることは違いないのですがね」 奥向きのことは分からないが、家臣たちが密かに奥仕えの侍女たちに探りを入れていることは間違いない。 君主、重定も今年で二十九になる。そろそろ世継ぎをせっつかれる年ではあるのだ。 「それよりもお方様のお体の方が…ここのところ健やかざるようで御館様も憂慮なされておいでです。我らが国許を発つ時も床に臥せっていらしたようで」 主はだんだんと衰えていく妻のために珍しいものや精のつくものを諸国から取り寄せたりしているようだが、肝心の正室がそれを喜んでいる節がない。 先細る食を何とか太らせようという周囲の腐心も、今のところ実を結ばずだった。 「しかし、あの兄上がねぇ」 重尚が顎を掻く。 兄、重定は昔から剛の者としては知られていたが、色事には頓と無関心だった。 それでも以前の居城に数人の妾は持っていたのだが、どの女子にも手ずから何かをしてやったという話は聞いたことがない。 その妾たちも正室を迎えるにあたってすべて里に戻すか家臣に縁付けしてしまい、今や彼の閨に入れるのは鈴ただ一人だと聞き及んでいる。 それほどまでに大事にされている当の正室は未だ亡き夫を想い、兄を夫とは認めていないというではないか。 「世の中、上手くはいかぬものよのう」 重尚とて兄の心中を思えばこそ余計なことは言わないが、お家の安泰を考えれば近いうちに再び側室を迎えることを勧めた方が良いのかもしれない。 このまま世継ぎに恵まれなければ、またごたごたが起こらないとも限らない。 知らせは昼を少し過ぎた頃、京の右近屋敷に届いた。 書状を読んだ篤義は顔色を変えて出かける準備を始める。 仔細を重尚に伝えると、ここでの用意を彼に任せ、篤義は一人後九条家へと向かった。 通された離れの表の客間では千代ともう一人、年かさの女性が待っていた。 この雅な女房装束に身を包んだ女性が、鈴の乳母であった久に違いないだろう。 「篤義殿、いかがなされました」 突然の来訪に驚く千代たちに届いた書状の内容を伝える。 「お方様が突然お倒れになった。薬師の見立てでは…恐らく胎の子が流れたのではないかと。夥しい血を失われたお方様は、御気を失われたまま、未だ目覚めぬそうだ」 千代はその場に倒れんばかりに真っ青になり、久も言葉を失っている。 篤義は茫然自失の態を晒す千代に近づくと、腕を掴み、乱暴なくらい強く身体を揺さぶった。 「しっかりしろ。すぐに出立できるよう仕度をせねばならぬのだ。倒れている暇はないぞ」 その言葉を聞いた千代の目に失っていた焦点が戻ってくる。 「は、早く、一刻も早くお方様の元に戻らねば」 使命感に突き動かされ、我に返った千代は篤義に掴まれていた腕を振り解くと、その場にあった荷を手に持った。 「わたくしもすぐにお側に参じます。それまでくれぐれも姫のことを頼みますよ」 そう言うと久はすぐに二人の帰りの足を用意し、自分の出立の段取りを始めたのだった。 その日のうちに千代と篤義は国許へ走った。 その間ずっと千代は蒼白のままで、ろくに食事や休息も取ろうともしなかったため、気を使った篤義が時々声をかけては食料や水を与えながらの帰路となった。 道中、会話もなくただ先を急ぐ二人が国境を越えて戻ってきたのは、京の都を発ってから三日目の朝だった。 HOME |