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Lovers Concerto 8


真音は軽く曲を弾き終えると、ゆっくりとした動きでソファーに戻って来る。
「詩音、どうしたの?大丈夫?」
演奏の途中で、泣きじゃくる自分の隣りに移って来たニコラスに肩を抱かれた詩音は、鼻を啜りあげながら頷いた。それでも納得できない真音が説明を求めるように、彼に視線を送る。しかしニコラスは小さく首を横に振り、今は敢えてその疑問を退けた。
「さすが、マオ。相変わらずいい音で弾くね」
その賛辞に少し困ったように笑うと、真音はバイオリンと弓をケースに戻した。
「さすがに指が動かないわ。しばらく触らないでいると、やっぱり感覚が鈍ってしまうのね」
「そりゃね。ピアノだって同じさ。でもほら、例のあの音楽学校に行くって噂になった当時は、一日最低でも5、6時間はレッスンつけてもらってただろう?学校が休みの日なんて朝から晩までほぼ一日練習室に缶詰になってたみたいだし。子供心に、『マオはよく飽きもせずにこんなことやってるよなぁ』って感心していたんだよ、俺」
その話題が出た時、ニコラスは詩音がびくりと身体を震わせたのを感じた。
「確かあの時ニコはまだ小学生くらいだったのよね」
「そう、俺が10歳前後の頃の話だからね。」


それからニコラスは、自分の祖父がこのバイオリンを保管することになったいきさつを話し始めた。
「この話はもうシオンにはしたんだけど、最初、俺のじいさんはこのバイオリンを携えて、両親を亡くした君たちの元に行こうとした。でも、あの騒ぎの後だっただろう?結局俺の両親の説得されて、渋々ほとぼりがさめるのを待つことにした」
しかしそれが間違いの元だった、とその時のことを振り返っては、後々ロレンツォが後悔していたという。
「もしあの時、すぐにマオの手にこれが渡されていたら、君は音楽の道を志すことを諦めてなかったんじゃないかって、じいさんはそれだけを悔やんでいたよ」
その後、彼の祖父が残された西山奏の娘たちを訪ねた時には、すでに二人は日本に帰国した後だった。更に最悪なことに、それからしばらくして、ロレンツォ自身も持病が悪化してしまった。
「元々心臓が悪かったんだけど、そのせいで国外に出ることもままならなくなった。娘にも……って俺の母親だけど、探させたけれど、結局じいさんが死ぬまで君たち姉妹の居所は分からず仕舞いだった」
「あ、あの……」
その時、詩音は急にニコラスの腕を外し、ソファーから立ち上がると、周りにいる3人をくるりと見回した。
「私ちょっと風に当たってくるわ」
そう言うと、彼女は引き留める間も与えず、足早にリビングから出て行ってしまう。すぐに玄関の扉が閉まる音がして、詩音が外に出て行ったのが分かった。
「嶺河さん、お願いしていい?」
心ここに在らずと言った様子の詩音を心配そうに見送った真音は、側にいた夫に妹のことを頼んだ。本当なら自分が追いかければ一番よいのだが、お腹が大きくなっている今は機敏に動けるとは言い難い状態だからだ。
「分かった。声をかけないで、様子だけ見て来るよ」
そう言った嶺河もニコラスに中座を断ると、詩音の後を追って外に出た気配がした。

「大丈夫かしら?」
「何でシオンはあんな風に感じているのかな」
妹と夫だ出て行ったドアをみつめながら心配する真音に、ニコラスが核心を突く質問を投げかける。
「ねぇ、マオ。どうしてシオンに音楽をやらせなかったんだい?」
「えっ?」
彼女は驚いた顔でニコラスを振り返った。
「聞けばシオンは何も楽器と名のつくものは扱えないそうじゃないか。西山奏の娘、ましてや君の妹ともなれば幼い頃からバイオリンの手ほどきを受けていても不思議じゃない。そこまででなくとも、ピアノくらいは弾けて当然の環境だと俺は思うんだけど。違うかい?」
真音は目の前にあった紅茶のカップを取り、一口すすると、困ったような顔でソーサーに戻した。
「習わせなかったわけじゃないのよ。私や祖母は詩音に何かやらせようとして、いろいろと試みたんだけど……」
どういうわけか、日本に戻ってからの妹は、音楽に、それもとりわけクラッシックに対して強い拒否反応を示し始める。
あれほど演奏する父親にべったりついて離れなかったのに、真音がバイオリンを弾こうとしただけで目を閉じ、耳を塞ぐようになってしまった。
せめて譜面を読むことだけは学ばせたいと無理やり習わせていたピアノも、結局本人が練習を放棄してしまい、途中で諦めることになったのだ。

「私がいない間に何があったのか、いくら聞いても何も話してはくれないし、手の施しようがなかったわ」
両親が事故で急死してから約ひと月の間、詩音は親族に預けられていた。
真音はヨーロッパで亡くなった両親の遺体の引き取りや葬儀、そしてそれに続く埋葬とその後の手続きに忙殺され、ほとんど自宅にいられなかったし、まだ幼かった詩音を長期間ベビーシッターに任せっぱなしにはできなかったからだ。
だが、ひと月ぶりに会った詩音は、以前の天真爛漫さを失い、おどおどと怯えた様子で人の顔色ばかり窺うような子供になってしまっていた。
そしてその後、義理の母親の親族たちとの間で起きた、遺産争い。

今振り返ってみれば、もっと自分に余裕があれば詩音のケアもしっかりすることができたのかもしれないが、真音自身もまだ未成年であったあの時は自分を守るだけで精一杯だったように思える。
だからすべてを投げ出して、妹と共に日本に逃げ帰ってきたのだから。

「ふぅん、そう。じゃもう一つ聞きたいことがあるんだけど」
ニコラスは目の前のケースに収まったバイオリンを眺めながら畳み掛ける。
「じいさんはあんなふうに言ってたけど、マオが音楽の道を諦めたことの理由は……シオンのことやストラディバリウスのこととはまったく別だよね」



その夜遅く、翌日仕事がある嶺河と共に、ニコラスは別荘を後にした。彼自身も数日後に次のコンサートを控えていて、リハーサルのため一足先に朝の便で日本を離れなければならなかったからだ。
「せっかくだから、もう少しゆっくりしておいでよ。チケットは時間変更できるし、いざとなったらキャンセルもきくからさ」
そう言って嶺河の運転する車の助手席に乗り込んだ彼は、いつもの軽い調子で詩音にウインクを寄越した。
「私にも予定ってものがあるんだけど」
素直でない口でそう反論しながらも、詩音もありがたくそれに従うことにする。

こうして別荘には、詩音と姉の二人が残されたのだった。




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