クラッシックコンサートに行く時には、若干の堅苦しさは覚悟しておかなければならない。 それは会場にいても周りから浮かない雰囲気であり、失礼のないマナーであり、演奏を聴く態度でもある。 今日の装いもまた然り。 詩音は滅多に着ることのないワンピースとパンプスを身に着けた自分の体を見下ろしてため息をついた。 彼の演奏は、掛け値なしで素晴らしかった。 彼女はよく知らなかったのだが、偶然隣に座った老夫婦の話によると、ニコラス・ヴァーノンはまだ若いながらもこの世界ではかなり有名なピアニストで、どのオーケストラと共演してもどこの大ホールで弾いてもチケットは即ソールドアウト、会場は超満員になるということだった。 ゆえに今夜のこの席は、彼らの子供たちが苦労して手に入れてくれたもので、プラチナ並みに価値があるのだと、その苦労を切々と語ってくれた時には、どんな顔をしたらよいのか分からなかった。 まさか、今朝突然訪ねてきた本人から、ぽんと手渡されたなどとは口が裂けても言えない雰囲気だったのだ。 「ピアノ・プリンス……ねぇ」 ファンの間では密かにニコラスのことをそう呼んでいるのだそうだ。 確かに彼の容姿は王子様的と言えなくもない。 高い身長に長い手足。誰が見てもハンサムだと認めるであろう彫の深い顔立ち。少し長めの黒い髪の毛と青灰色の瞳の対比はロマンス小説に出てくる高貴なヒーローの容姿そのものだ。かといって話していても決して堅苦しいタイプではなく、むしろ愛想はすこぶる良い。 それらのことを考えると、彼の女性受けはかなり良いはすだ……多分。 更に驚いたことに、彼の演奏は朝のちゃらちゃらした軽い男からは想像できないような、落ち着いた音だった。 パンフレットの紹介では、本来の得意演目は重厚な音楽の代名詞であるバッハとのことだが、今日の演奏曲はショパンだ。 「見た目だけでいうならリストの方がずっとお似合いって気がするけど」 調べに乗せて愛を語る。 そんなキザったらしいシーンを思い浮かべた詩音は、思わず鼻を鳴らした。 「リストみたいなのが好みなのか?」 突然背後から聞こえてきた声に、彼女は思わず小さな悲鳴を上げた。見ればそこには、ニコラスの姿があった。 彼はまだ舞台から降りた時の衣装のままで、ドアの内側にもたれ掛ってこちらをじっと見ていた。 「きっ、急に何よ。驚くじゃないの」 「こっそり入ってきたつもりはないんだけどね。それにここ、元々俺の控室だし」 今彼女たちがいるのは舞台裏、ホールのバックステージだった。演奏が終わった後、詩音は係りの人に誘導されてここに来たのだが、彼はファンサービスを兼ねてホールの入口あたりで来場客を見送っていたらしい。 手持ち無沙汰になった彼女は、控室に飾られた数々の花を見ながら、ぼんやりと考え事をしていたのだ。 「ラ・カンパネラや愛の夢?ああいう軽いタッチはちょっと苦手なんだけど。君が望むなら今度トライしてみてもいいかな」 愛を語るにはいいかもなぁ、と勝手に独り言を呟くニコラスを無視して、詩音は側にあったスツールに腰を下ろした。 「それよりすごい数のお花ね。これなら私なんかが持ってこなくてもよかったんじゃない?」 控室の壁際に寄せてあるゴージャスな数々の花たちと、それに添えてあるメッセージカードを見ていた詩音は少しむっつりとした様子で彼にそう漏らした。 「何で?」 「だって……」 カードには今夜の公演を聞きに来ていたと思われる、政治家や経済界の重鎮、有名な劇作家、それに確か新進女優の名もあった。彼らのこれでもかと言わんばかりに豪華で派手な花束に比べて、自分が持って来たものは何と見栄えのしないことか。 「俺としてはシオンがくれたのが一番なんだけどな」 「また、そんな心にもないこと言って」 「本当、本当。もう俺って信用ないんだなぁ、この熱い想いが君に伝わらないなんてさ」 「……ばか」 わざと傷ついたという顔をするニコラスに、むくれていた詩音もつい吹き出してしまう。 「それはそうと、これから打ち上げに行くんだけど、君も来ないか?」 「えっ?何で私が?」 「せっかく来てくれたんだから、それくらいサービスしないとね」 「でも私、完全な部外者なんだけど」 「大丈夫だって。一人や二人増えたところで、誰も不思議に思わないよ。俺の知り合いみたいな顔をしておけばいい。それより時間は大丈夫?」 成人で、それも一人暮らしをしている彼女に気を使うような者はいない。 「それは平気だけど……」 「それじゃ決まりだ。少し待っていてくれないか。着替えてから一緒に行こう」 準備をしたニコラスは、先ほどの言葉通り、詩音から渡された花だけを持って楽屋を出た。残された大量の花は一部を施設や病院に寄付し、あとは分けてスタッフが持ち帰るのだそうだ。 「何かもったいないわね」 「そう?でも俺、こっちではホテル住まいだから飾るスペースもないし」 彼はそう言うと、スタッフにカードだけを集めておくよう頼んでホールを後にする。 最初に入ったのは、ホールに隣接するホテルのレストランだった。 そこで小一時間、今日の共演者やコンサートの主催者、それに招待されたセレブたちの相手をする。次々に、目まぐるしく引合される人たちは皆、彼女もテレビ等で見たことのあるような有名人ばかりだ。 「そろそろいいかな」 「えっ?」 彼女をそっと促して周囲に気付かれないように会場を抜け出し、次に向かった先は、タクシーで15分ほど行ったところにあるビルの地下にあった。そこは驚いたことに、大衆的なナイトクラブのような場所だった。 重い木の扉を開けると、そこにはクラッシックとは無縁の雑然としたフロアが広がっていて、中では多くの人間がグラスを片手にガヤガヤと語り合っている様子がうかがえる。 ニコラスは常連なのか、カウンターの方に向かって片手を上げるとすぐにホールスタッフが来て、奥の席に案内された。 「ここが?」 「そう。俺たちの仲間内の打ち上げ場所」 彼が席に座ると、またもや次々に人がやって来た。だが、先ほどの形式ばったレストランの時とは違い、彼自身もざっくばらんに会話をしている。 「ニコ、一曲何かやってくれよ」 どこからともなく聞こえた声に、周囲が皆どっと沸く。 鳴り止まない期待のこもった拍手の中、彼は小さく肩を竦めるとホール中央のピアノの方に向かう。 興味津々の詩音や周囲が見守る中、彼が即興で引いたのはかの有名なスタンダードナンバーのジャズアレンジメドレーだった。 「ねぇ、こんなことをして大丈夫なの?」 「何が?」 「芸が荒れるって言われない?」 楽しそうに数曲を弾いた後、戻って来たニコラスに詩音が訊く。 彼女はクラッシックの演奏家がジャズを演奏するのをあまり聞いたことがない。そこには何か目に見えない境界というか、クラッシック以外を芸術とは認めない、一種の縄張り意識のようなものが存在するように思っていたのだ。 「うーん、そうだな。時々マネージャーには注意されるよ。でもこっちの方が自分を素直に表現できるのも確かだ。それにたまには好き勝手に羽目を外して無茶なことでもやらないと、閉塞感で煮え詰まっちまいそうになるんだよな」 そう言って苦笑いをするニコラスの横顔に、詩音は彼のピアニストとしての苦悩を垣間見たような気がした。すべての演奏家が常に順風満帆でいられることはない。それは間近で身内を見ていた彼女もよく分かっていることだ。 詩音はコンサートの時とは違い楽しそうにピアノを弾く姿を見ながら、彼はこうして行動や感情のバランスを保っているのかもしれないと感じたのだった。 「それじゃありがとう。今夜はまあまあ楽しかったわ」 「まあまあ?すごくじゃなくて?」 彼女の言葉に、ニコラスはわざとがっかりして見せる。 ひとしきり騒いだ後、日付が変わってから詩音は彼とともにアパートメントに帰ってきた。タクシーを待たせたままでドアの前までついていくと言い張ったニコラスに過保護だと抗議するが、彼はそんなものはどこ吹く風といった具合だ。 「知らせを待っているよ」 「早いうちに、姉に……真音ちゃんに連絡をしてみるわ」 そう言ってドアの中に入ろうとした詩音を、ニコラスが呼び止める。 「シオン」 振り返ると目の前にあったのは彼の胸。考える暇もなく、彼女は彼の腕の中で抱きしめられていた。 「な、何?」 軽く指先で触れられた唇に、彼のそれが重なる。 決して深くはない、しかし熱い口づけに酔い、ぼうっとした彼女を放すと、彼は詩音の背中を押してドアの向こうに入れた。 「お休み、ハニー。良い夢を」 廊下を歩き去る靴音が聞こえなくなってからも、詩音はしばらく閉じられたドアの前から動けなかった。 「一体何なのよ、もう……」 ただのお休みのキス。そう思おうとしたが、それでも詩音の心の中に立ったさざ波はなかなか消えず、その夜の彼女を戸惑わせたのだった。 HOME |