「バイオリンだけじゃなくて、ピアノも何も。私は楽器と名のつくものを演奏することができないのよ」 彼に背を向け、何か恐ろしいものでも見るようにバイオリンの方をうかがう詩音の告白に、ニコラスは一瞬だけ、驚きの表情を浮かべた。 まさかなぁ…… 西山奏の娘ならば、当然バイオリンは弾けるものだと思い込んでいた。 特に奏の生家である西山家は彼の他にもピアノや声楽等、音楽の世界で活躍する人材を輩出しているし、中でも詩音の姉である真音は、かの有名なジュリアード音楽学校の推薦を取ることができた逸材との呼び声が高かったからだ。 実はニコラスが幼少の頃、ピアノ神童と呼ばれるようになったきっかけというのも、当時の真音のレッスンに同席したことが始まりだ。 まだ幼い彼にとって、ピアノは面白みのない習い事の一つでしかなかったが、祖父に連れられて奏の元に遊びに来ていた時に、初めて見るグランドピアノに興味を持ち、目の前に立てかけてあった伴奏用の難解な譜面を即興で演奏して見せて、周囲を驚かせた。 そんなニコラスの才能をいち早く見出したのは、彼の両親でもピアノ教師でもなく、真音にバイオリンのレッスンを施していたある音楽学校の教授で、その人物と奏の口添えで自分はこの道に進むことになった。 それが後々良かったのか悪かったのか、今となっては彼自身にもはっきりと言えないところではあるが、他のピアニストたちに比べて大した苦労もなくデビューできたし、ここまで上り詰めたことだけは確かで、それには感謝しなければならないだろうと思う。 そんな音楽環境に恵まれて育ったのだから、詩音も、たとえプロ並みなどというレベルには遠く及ばなくても基礎のレッスンくらいは受けているものだ思い込んでいた。 それなのに、彼女は自分がまったく音楽的な教育には縁がなかったといった口ぶりだ。 なぜそのようなことが起きたのか。解せないとは思いつつも、彼女の否定的な反応を見たニコラスは、それ以上無理強いすることは控えた。 「今日はこれからリハーサルがあって時間がないんだ。だからこれ」 「何?」 彼がポケットから一通の封筒を取り出して彼女に差し出した。 「今日の夕方からの公演のチケット。良かったら来て」 そう言って今日のコンサートのチケットを彼女に渡そうとする。 「時間があったらでいいけど……バックステージにも入れるように手配しておくから、ぜひ聞きに来てよ」 「えっ、でも……」 「その代り、楽屋に俺に似合う真っ赤なバラのでっかい花束をよろしく」 「……信じられない。そっちの方が絶対に高くつくわよ」 眉間に皺を寄せ、ぶつぶつ文句を言いながらも、詩音は彼の手から封筒を受け取った。 「それからこれ。君が持って帰っても保管する場所に困るだろうから、当面俺が預かっておくが異存はないか?近いうちにマオにも連絡を取って、できれば確認に来てほしいんだけど」 「真音ちゃんは今……連絡はしてみるわ」 何か言いかけたようだが、それを思いとどまるように彼女は頷いた。 「頼むよ。それじゃぁ家まで送って行く。慌ただしくて悪いけど」 「えっ?いいわよ。ここからなら地下鉄かタクシーを拾うから」 「送って行く」 「いいってば」 「送る」 「あなたねぇ……」 詩音はむっとした表情で、ニコラスの胸を人差し指で突いた。 「私は子供じゃないんだから、家までくらい一人で帰れるわよ。大体あなた、これから音合わせで忙しいんでしょう?」 「いいから送るって。そのくらいの余裕はあるからさ」 「ちょ、ちょっと待ってって。放してよ、もう。一体何なのよぉ」 頑固に言い張る彼に腕を取られ、引きずられるようにして部屋を出た詩音と入れ違いに、一人の男性が練習室に入っていく。ニコラスはすれ違いざま彼に一言二言何か告げると、そのまま彼女を駐車場の方へと引っ立てた。 「いいの?」 「何が?」 助手席に押し込まれた詩音がもの問いたげな表情で彼を見る。 「あんな高価なバイオリンを置きっぱなしで。私たちと入れ違いに誰か中に入って行ったじゃない?」 心配そうな彼女の言葉に、ニコラスは車を走らせながらちらりと彼女を見て笑った。 「問題ないよ。彼は俺のマネジメントを一手に引き受けている仕事仲間……いわばマネージャーだ。あいつなら信頼できる。それにヤツだってずっとあそこで見張りをしていられないだろうから、誰か警備の人間を配置しておくように言っておいた。多分、今頃は雇ったガードマンが張り付いているんじゃないかな」 「ガードマンって、そんな大げさな」 「それくらいの価値はあるんだ、あのバイオリンには。何せ実際価格が5億とも、それ以上とも言われる逸品。盗んでも表だって売ることは難しいだろうが、裏でコレクターにでも吹っかければ、かなり儲かるぜ」 と冷ややかな口調で言い捨てるニコラスの態度が妙に癪に障る。 まるで彼女がそうしたがっているとでも言わんばかりの言葉。それを聞いてむっとした詩音は、ニコラスを無視して前を睨み付けるように見据える。そんな彼女の横顔を面白がるような表情でうかがうニコラスだったが、なぜかその眼は笑ってはいないように見えた。 行きと違って帰りは渋滞もなく、20分ほどで自宅アパートの前に着いた。 車を路肩に止め、自分も降りようとしたニコラスを制した詩音は、最後に彼の方に振り向いた。 「そんなに高価なものならわざわざ手元に置いて持ち歩かなくても、銀行の地下の貸金庫にでもしまっておけばいいじゃない」 詩音の言葉を聞いた彼は、これだから素人は困ると言わんばかりに、肩を竦めながらふふんと鼻で笑う。 「それはできないな。いくら高価で、美術品並みの値打ちがあるとはいえ、相手はデリケートな楽器だ。温度湿度の管理ができない場所に長時間置いておいて、コンディションを損なわせたくない。こう見えても、俺だって演奏家の端くれだからね」 「あっそ。ふーん、それはそれは」 詩音は気のない返事を返すと、さっさとシートベルトを外し、ハンドルに手を掛けてドアを開けようとする。そんな詩音の腕を掴むと、ニコラスは自分の方に引き寄せて彼女の顔を覗き込んだ。 「それじゃ、今夜待っているよ。ハニー」 「だっ、誰が『ハニー』よっ。あんたのその馴れ馴れしい態度、どうにかしなさいよ、もう」 くっくっと笑うニコラスに軽く肘鉄を食らわした詩音は、ぷりぷり怒りながら車を降りた。 「しばしの別れだ、寂しがるなよ」 「おとといおいで」 それでも懲りずに投げキスをしてくる彼に、本当は汚い言葉と共に中指を突き上げてやりたいところだったが、往来のある場所では思いとどまり、代わりに思い切り舌を出した。 そんな彼女を見て忍び笑う様子もまた、腹が立つ。 それでも送ってもらった礼儀上、車が走り去るのを見届けた詩音は、怒りにまかせて必要以上にどたどたと足音も荒く自分の家へと戻って来た。しかし、部屋に入って渡された封筒を開き、チケットを取り出した彼女は、それを見て驚いた。 「これ、本当にもらっちゃっていいのかなぁ?」 座席はSS、つまりスペシャルSシートだ。それも番号は一番音響のよい中央部分になっている。 「あのホールのクラッシックコンサートでこの席だと……かなりするはずよねぇ」 チケットをひらひらさせながら、詩音は片手でこめかみを擦った。 「一体どれだけ大きなバラの花束を持って行けばいいのかしら。それよりクラッシックコンサートのドレスコードって?ああ、困ったなぁ……」 のんびりとした休日のはずが一転、夕方の準備にに向けて慌ただしくなっていく。 それでもその時の彼女はなぜか、「行かない」という選択肢は思いつかなかった。 HOME |