BACK/ NEXT / INDEX



Lovers Concerto 3


詩音の父親であった西山奏は、海外の有名フィルのコンサートマスターを歴任した著名なバイオリン奏者だった。
彼の奏でるバイオリンは調和の音色とも呼ばれ、どの楽団に入っても他の楽器を違和感なくまとめ上げ、融合させていくと評論家の間では高く評価されていた。
ただ、残念なことに、現在独奏としての西山奏の演奏記録は残されていない。
というのも、周囲からはソリストとしての素質は十分にあると思われていたが、彼自身は生涯オーケストラの一団員としての活動しかしなかったからだ。

このバイオリンは、彼の音色に惚れ込んだという収集家から破格に安い値段で買い受けたもので、購入した当時、ソリストでない者がコレクションや投機目的以外でこれほど高価な楽器を所有することは極めてまれだと言われていたほどだ。
はっきりとしたことは不明だが、その実際価格は数億円は下らないということだった。

父親が亡くなった時、親族間の遺産争いがもとでそのストラディバリウスは売りに出されたと彼女は聞かされている。そして、実はそれを裏で画策したのが詩音の母親の兄弟だったことも、今では分かっていた。
しかし、鳴り物入りで売られたバイオリンは実はストラディバリウスではなく、まったく別の作者の楽器であったということが判明し、後に訴訟にまで発展したいきさつがある。
果たして本当にストラディバリウスを所持していたのかという疑惑まで取りざたされた挙句、結局西山奏の愛器は現在まで所在不明のまま、その真偽をうやむやにされていたのだ。



「何であなたが?」
詩音はにわかには信じられないといった様子で彼を見上げた。先ほどまでのくだけた様子から一変、彼は鋭い眼差しで目の前にあるバイオリンを見つめていた。
「実は、俺の母方の祖父はイタリア人なんだけど……結構この世界では有名な楽器職人でね」
ヨーロッパに演奏旅行中、アクシデントに見舞われた詩音の父親は、旧知の間柄だったニコラスの祖父に至急の修理を依頼した。移動続きでイタリア本国に楽器を持ち込む余裕がない彼女の父のために、ニコラスの祖父はわざわざ奏の滞在先まで楽器を引き取りに向かい、そしてイタリアにある自分の工房に持ち帰った。
その際当面の応急処置として、ストラディバリウスの代わりにと、メンテナンスと保管のために祖父に預けていたバイオリンを持ち込ませたのだそうだ。
「聞いた話では、娘が……多分君のことだと思うけれど、バイオリンにホットチョコレートを飲ませてしまったらしい」
奏はそう苦笑いをしていたという。

メンテナンスを依頼している間、彼は以前に使っていたバイオリンを演奏会場に持ち込んだ。その楽器もかなり高額なものには違いないが、やはりストラディバリウスほど価値の高いものではない。
そのヨーロッパツアーの最中に、彼と妻は不慮の事故に遭い、命を落としたのだ。
こうして後に残された真音と詩音の姉妹は、突然親族間の遺産争いの真っただ中に放り込まれてしまう。アメリカにあった家や価値のある不動産はほとんどが妻、シェリーとの共有名義になっていたため、そこを彼女の親族に付け込まれて、かなりの資産をかすめ取られることになった。
「君の姉、マオとも旧知の間柄だった俺の祖父は、すぐに君たちの元に駆けつけようとした。カナデのバイオリンを持ってね。ただ、その時にはそれを思いとどまった」
「どうして?」
「考えてもみろ。そんな時にこんな価値のある高価なバイオリンを、後ろ盾のない君たちに渡してごらん。周囲がどんな行動に出るか。祖父はそれを恐れたんだと思う」
多分本物のストラディバリウスはすぐさま売りに出され、人手に渡っただろう。事実、父の手元にあったバイオリンは金目当ての親族によって売り捌かれたのだから。
「その後、やっとほとぼりが冷めて祖父がに会いに行こうとしたけど、すでに君たち姉妹はアメリカを引き払い日本に引き上げた後だった。遺産のごたごたを知る演奏家仲間や当時カナデが所属していた楽団からは一切君たちのプライベートなことを教えてもらえなかったし、祖父が君の父親から聞いていた住所には連絡がつかなかった」

日本に帰国した当初、突然両親を亡くして精神的に大きなダメージを受けた詩音を心配した真音が、祖母の住んでいた家に身を寄せたためだろう。妹が落ち着いたころを見計らって父親の遺した自宅に戻ったのは帰国してから一年近くが過ぎてからのことで、二人の孫娘の将来を心配した祖母が実家での同居に応じてくれたのだった。
「それから祖父は、ずっとこの貴重な楽器を自らの手で保管し続けていた。定期的にメンテナンスをし、工房に厳重なセキュリティのある保管庫を誂えてね。祖父はいつも言ってたよ、いつか必ず、バイオリニストになるはずだったカナデの娘に最高のコンディションのこれを返すんだと」
「それで、そのおじい様は?」
「昨年他界した。それで工房を譲り渡すことにしたんだが、そこでこの名器の処遇が問題になった」
祖父が他人名義のストラディバリウスを長期間保管していたことは、ニコラスと母親以外には知らされていなかった。現在はニコラスの父親と結婚してイギリスに居を構えている母親が偶然、西山奏の娘がアメリカに戻って来ていることを知り、これを彼女に届けるように言ってきたのだという。

「高齢の祖父は亡くなる直前まで誰にもこれを触らせず、自分で手入れをしていたと聞いている。そんなに大事なバイオリンなのかと、弟子たちは皆不思議に思っていたそうだ。だが、誰もその詳しいいきさつを知らなかったせいで、見つかったのがストラディバリウスだと分かった時には大騒ぎになったんだ」
ニコラスはそう言うと、ケースに収まったままのバイオリンを彼女の方に押し出した。
「ほら、手に取ってみろよ」
「えっ?」
「君の父親の遺品だ。弾いても誰も文句は言わないさ」
「む、無理よ」
「何で?」
「だって……」
詩音は俯きながらぐっと手を握り締めると唇を引き結んだ。
「私……楽器は何も弾けないもの」




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME