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Lovers Concerto 2


時間もないことだし、とにかく着替えなくては。
そう思った詩音は、寝室のクローゼットから厚手のセーターとデニム生地のスカートを取り出すと素早くスエットを脱いだ。
「うわ、寒っ」
ヒーターの入ったリビングやキッチンと違い、寝室はかなり冷え冷えとしている。
部屋と一緒に冷えた洋服が体温に追いつくまでの辛抱とばかりに、身体に力を入れた彼女は次に浴室に駆け込んだ。
「うーん。お化粧をする余裕はないけど、まっ、いいか」
デートするわけでもあるまいしと自分に言い聞かせながら、とりあえず洗顔をすませ、歯を磨いて髪をとかす。
短く切りそろえたダークブラウンの髪が天然のウエーブのせいであちらこちらにはねてしまうが、これはもう諦めている。

ヒーターを切り、戸締りを確認して玄関に出た彼女は腕時計を見る。
「よし。で、あと残り3分」
鍵を掴んでスリッパを靴に履きかえ、鏡に写った自分の姿をまじまじと観察したが、どうにもひどい格好だった。
出掛けるなら、せめて30分前に言って欲しもんだわね
ぶつぶつ文句を言いつつも、アパートメントを出た詩音は、エレベーターを使うことなくそのまま階段を一気に駆け下りた。


「来たわよ」
門の前に停まっていた車の助手席の窓を叩くと、ニコラスが驚いた顔をした。
「どうかした?」
「いや、本当に15分で出て来るとは思っていなかった」
「何よ、その言いぐさは。そっちが15分で出て来いって言ったんでしょう?」
乗り込んだのはトヨタのハイブリット車だった。
静かに走り出した車の中できょろきょろしながら、詩音は「ふうん」という顔で彼を見た。
「ちょっとびっくりしたわ」
「何が?」
「ん?もっと大きくてド派手な車に乗っているのかと思ったから。何かイメージと合わないわね」
ニコラスは横目でちらりと彼女を一瞥するとまた正面に視線を戻した。
「どんな車に乗っていると思ってた?」
「そうね、イメージだけなら、ちゃらちゃらしたイタリア車。もしくは爆音を振りまきながら走る迷惑なアメ車」
それを聞いた彼は思わず噴き出した。
「人も車もごちゃごちゃに入り混じった、こんな街中でか?大体、元から排ガスで空気が悪いっていうのに、これ以上汚してどうする?俺は少しでもエコに貢献したくてこの車に乗っているっていうのにさ」
「だからイメージよ。コンパクトなエコカーに乗っているあなたなんて、想像がつかなかっただけで」
「まぁな。ここでは車を停める場所にも苦労するからこのくらいの方が楽なことは確かだ。でも国に帰ったらもうちょっとでかいのに乗っているよ」
「国って……そういえばあなた、少し言葉のイントネーションが違うわよね。どこの人?」
「一応国籍はイギリス。でもオフクロはイタリア人とフランス人のハーフだし、親父はイギリス人だけど北欧の血が混じっていたし。実はルーツがよく分からないんだ」
「ふーん、それでそんな派手な見た目になったってこと?」
「そう。多民族の良いとこ取りってやつさ」
「言うわね、まったく」
確かに彼のルックスは抜群に目立つ。すらりと高い身長と長い手足。はっきりとした顔立ちの、彫の深さはイタリア人由来のものだろうか。髪の毛や眉の色は黒いが目はグレーがかったブルー、これは北欧、もしくはイギリス人のものだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら彼の横顔を眺めていた詩音だったが、くすりと笑う声にはっと我に返って急いで目を逸らした。
「で、その車って、ベンツか何か?」
「いや、レンジローバー」
「……あっそっ」
「あ、何かその言い方冷たくないか?」
「いかにもエコな自分をアピールしている割にはいい加減じゃない?ヴァーノン?」
「ニコ」
「えっ?」
「どうせならニコって呼んでくれよ。ヴァーノンじゃなく」
「お断り」
「何で?」
「初対面に等しい男の人をファーストネームで、ましてや馴れ馴れしく愛称で呼びたくないから」
ぷいと横を向いた詩音の様子に、彼はからかうようににやりと笑った。
「そんな男と一緒に車に乗っているのは構わないって?」
「仕方がないでしょう?強引に家から引っ張り出したのはそっちなんだから」
「はいはい、そうだったね」
「もう、何よそのいい加減な答え方、ムカつく」



途中で渋滞につかまり、車で30分ほどかけて連れてこられたのは、詩音も良く知るコンサートホールだった。
このホールは世界でも屈指の音響設備を備えていることで知られており、有名な演奏家やオーケストラがここで度々コンサートを開いている。
詩音の父親である西山奏の所属していたオーケストラも、年に数回ここで定期的に公演をしていたので、彼女自身、子供の頃に何度か楽屋裏に遊びに行ったことがあった。
今、彼女がいるのは、その館内にある、リハーサル室の中の一つだ。
そこはかなりしっかりした防音設備がほどこされているらしく、ドアを閉めると外の音は全くといっていいほど聞こえてこない。

「で、何?」
彼女の後ろから部屋に入って来たニコラスの方を振り返ると、彼は着ていたコートを脱いでハンガーに掛けているところだった。温度や湿度を、楽器に最適な環境に設定してある室内は少し肌寒いくらいだが、外気と比べると温かささえ感じる。
「あれを君に見てもらおうと思ってね」
ニコラスが指し示す場所にはグランドピアノが1台置いてある。
「ピアノ?」
「いや、その側にある、あの机の上だ」
よく見ると、ピアノの側のテーブルに置かれたあるものに、何か黒い布が掛けられていた。
「何?」
「見れば分かるさ」
そう言って彼は詩音をテーブルの方へと誘うと、布の真ん中の盛り上がったところを摘まんで引っ張った。
「バイオリン?」
その下から出て来たのは、ありきたりな黒い革のケースだった。大きさからして、ビオラではなくバイオリンが入っているらしい。
「開けてみて」
「えっ?いいの?」
ニコラスが頷くのを見た詩音は、留め金を外すと右手でケースの蓋を開けた。
「これは……?」
中には一目で新品と分かる弓と共に、一台の使い込まれたバイオリンが収められている。かなりの年代物なのか光沢はなく、むしろ艶を消したような渋さの見える品だ。
訳が分からず彼を見上げた詩音に、ニコラスが顎でしゃくる。
「見ての通り、バイオリンだよ」
「そんなの分かるわよ。でも何でこんなものを私に見せたいの?」
不審げな顔をした彼女を見たニコラスは、小さく息を吐き出すとぎゅっと口元を引き締めた。
「それは、カナデの愛器だ」
「カナデの愛器?って……まさか」
「そう。これは君のお父上である、カナデ・ニシヤマが愛用した逸品。バイオリンの最高峰とも呼ばれる名器、ストラディバリウスの実物だよ」




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