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Lovers Concerto 11


空の上から見下ろす建物が段々小さくなり、やがて彼方へと消えていく。
飛行機の窓から遠ざかる陸地を眺めながら、詩音は小さくため息をついた。
「こんな贅沢、しなくてもよかったのに」
ニコラスがあらかじめ手配してくれていたチケットはビジネスクラス。
いつも一人で帰国する際には倹約のために割引のあるエコノミーを使う彼女にとって、余裕のあるシートがありがたい反面、少し恨めしい。
「まぁ、彼にとってはこれでもお安いんだろうけど」
経済的に余裕のない学生である自分と違い、ニコラスはとうに独り立ちした社会人であり、なおかつ成功したピアニストだ。今回も、自分が言い出したことだからと飛行機の代金を受け取ってはくれず、おまけに行も帰りもビジネスクラスを用意してくれていた。
「俺は往復ファーストクラスでもよかったんだけど、君が嫌がりそうだったからワンランク譲歩した」と言われた時には、本気で「コイツ、殴ってやろうか」と思ったほどだ。

だが、あの厭味ったらしいほどの余裕と、のらりくらりとした態度に騙されそうになるが、彼はそんなに無神経な男性ではない。むしろ、表に見える部分が飄々としている分、中身はとても細やかで鋭い感覚の持ち主なのだと、今ならば分かる。


「しかしなぁ、パパってば、何であんなこと言ったんだろう」
昨夜、遅くまで姉と話し込んでいる時に、真音が懐かしそうに思い出して言った昔の出来事は衝撃だった。

「そういえば詩音、あなた小さい時に、『ニコラスのお嫁さんになる』って言ってたのよ。覚えていない?」
それを聞いた詩音は顔を強張らせた。
「な、なんで私がアイツのお嫁さんなのよ」
ふふっと笑いながら姉が首を傾げた。
「だってあなた、よちよち歩きの頃から時々遊びに来た彼の後ろをついて歩いていたのよ。それでニコに邪魔者扱いされては大泣きして。そうするとニコが慌てて機嫌を取るものだからまた彼の後を追いかけるのよ。それはもう懐いていたわよ、ニコに」
「……信じられない」
もちろん、当時3、4歳だった彼女にそんな覚えはない。
大体ニコラスの存在自体、記憶にさえ留めていなかったのだから。
「それでね、ニコラスが『カナデがOKしたらお嫁さんにしてやる』って言ったものだから、あなた即パパにそれを直談判に行って……。もちろん周りの大人はみんな冗談半分で聞いていたけれど、パパはその時こう言ったの」
真音が悪戯っぽくウインクする。
「『将来ニコが立派な大人になって、一端の、名のあるピアニストになったら詩音を嫁にやってもいい』って。まだ小学生のニコに、パパが真面目な顔で言うものだから、私は驚いたわ。でも、あなたもうすっかりその気で彼のほっぺたにキスをするし」
「うそぉ……」

その時のシチュエーションを考えただけで、詩音は恥ずかしくて、今でも顔から火が出そうだ。
「若気の至り……いや、若すぎてそれ以前の問題?」
何分にも自分が3、4歳の頃のことだ。身に覚えがないし、そんなことをした記憶も定かでない。
「お嫁さんかぁ……」
成長したニコラスはその言葉通り、立派な大人の男性となり、名のあるピアニストになった。
今の彼ならば誰が見ても素敵だろうし、別段自分がどうこうしなくても女性には引く手数多だろう。

まぁ、あっちも覚えていないようだし、深く考えなくてもいいか。
当分演奏ツアーでゆっくりできないようなことも言ってたから、会う時間もないだろうし。

そう思っていた詩音だったが、予想に反して空港で彼女を待ち受けていたのは、忙しいはずのニコラス本人だった。
「お帰り」
「た、ただいま。ってあなた忙しいんじゃなかったの?」
それを聞いたニコラスはふふんと鼻を鳴らす。
「恋人を迎えに来るくらい、忙しくてもできるさ」
「だっ誰が恋人なのよ」
「君以外にここにいないだろうに」
「私は認めませんからね。あなたのお嫁さんになるなんて……」
そこまで言った詩音はしまったという顔で思わず自分の口を押えた。
「あれ、思い出した?それともマオから聞いたのかな。どっちにしても知っていると話が早いよ」
「あ、あなた、本当にそんな昔のことを覚えていたの?」
「当たり前だろう?俺、あの時もう学齢期だったんだぜ。記憶力いい方だし。最初に会った時にはさすがに変わってたから君だって分からなかったけど」
それはそうだろう。かれこれもう20年近く顔を見ていないのだから、幼児が大人になった姿が分かったらそれはそれで怖いものがある。
「そんな過去のこと、忘れてよ」
「嫌だね」
「……もう、勝手に言ってれば?」
彼の手に荷物を預けたまま、くるりと背を向けた詩音の後ろから、覗き込むように長身のニコラスが顔を寄せる。
「俺、自分でも結構お得だと思うぜ。一人暮らしが長かったから大概は何でもできるし、金もそこそこ持っているし。あ、ベッドでもちゃんと良い思いを……」
そんな彼に詩音は顔を赤くして肘鉄を食らわした。
「こんなところで何いってんのよ。いい加減にしてよ、このお調子者のおバカぁーーー」



アメリカに戻った詩音は、それからしばらくは大学の卒業準備に追われた。
卒業式の後、真音の出産に合わせて再び日本に帰り、新学期から学業も新たにもう一段上を目指す予定だ。
ニコラスはといえば、何を思ったのか当分はアメリカを拠点に演奏活動をすることにしたらしく、こちらに滞在する際に定宿にしていたホテルを引き払って、市街地からほど近い場所に家を借りて住んでいる。

そんな日常の中、彼女の心境と生活にもう一つ大きな変化が訪れた。
それは……

「ニコラス、ピアノを教えて」

子供が習い始める時に使う、初歩の楽譜を抱いて彼の元を訪ねた詩音を、ニコラスは驚きながらも快く招き入れてくれた。
彼女が選んだのは、もちろん「メヌエット」
たどたどしい指使いで紡ぐ音は間延びしたり、しばしば途切れたりもするが、それでも少しずつメロディーを奏でることができるようになってきた。
そんな音に、時折軽やかで優雅な音が重なり寄り添う。
この少し不釣り合いな連弾がなぜか詩音には心地よく、優しく聞こえるのだ。
そう言うと、ニコラスは気負いもなくこう言い切った。

「そりゃそうさ。俺たちが奏でているのは、正真正銘の『Lovers Concerto』(恋人たちの協奏曲)だからな」
と。


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