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Lovers Concerto 10


「そんな……だ、だって真音ちゃんは、本当なら一流のバイオリニストになれたって」
「誰がそんなことを言ったの?」
それを聞いた真音が苦笑いを浮かべる。
「回りの人がみんな……それに、きっとパパだってそう思って期待していたに違いないし」
「それはあなたの買い被りよ。現に、私はパパに忠告されたんだから」
「忠告?」
「そう。忠告というよりも、そうね、最後通牒を突きつけられたと言った方がいかもしれない」
「最後通牒って、それ一体どういうこと?」
真音は少し困ったような顔で、当惑した妹を見つめる。
「あの時パパはね、私に究極の選択を迫ったのよ」


姉が音楽の道を断念し、帰国した理由は、詩音もはっきりとは聞かされていない。
周囲からかなり強く慰留されたが、それを振り切ってまで強硬に日本に戻った真音が、それから後もその心の内を誰にも明かさなかったからだ。

確かに父親の突然の死のショックは大きく、その後立て続けに起きた遺産の相続争い、詩音の親権問題等に嫌気がさしたのは事実だ。だが、彼女にとってそれと音楽を捨てたことはまったく別の次元の問題だった。

「さっき、あなたは私の演奏が、パパの音だって言ったでしょう?」
詩音はその話がどこに繋がっているのかよく分からず、ただ黙って頷いた。
「私のバイオリンはパパの亜流なの。ううん、演奏そのもの、というよりも音の質がパパのものをそのまま継承しているといった方がいいのかもしれない」

生前、姉妹の父親、西山奏はハーモニー・マイスター『調和の音の紡ぎ手』と呼ばれていた。
どんなに荒く鋭い個を主張する演奏家たちの音の中に入っても、不思議とそれらを柔らかくまとめてしまう、不思議な音のマジック。
それがコンサートマスターとしての飛びぬけた能力、西山奏の真骨頂だった。
しかし、それは同時に上を目指す一人の演奏家としては不幸な才能と言っても過言ではなかった。なぜなら、彼の奏でる音は己を誇示することを知らない、他を融合することでしか、その存在を主張することのできない音だったからだ。

「ジュリアードの話が来た時、パパは私に訊いたの。もしこのまま音楽を続けるのなら、自分と同じ道を辿ることになるだろう。その覚悟があるのかって」
自分と同じ、演奏家としての道。
だがその先にソリストという輝かしい未来は存在しない。
どれだけそれを弾きこなす技量を有しようとも、舞台の上で一人観客を魅了し、他を圧倒するパワーと表現力、そして自己主張を持たない奏者には、決して望めないポジションであることを、父は自らの体験で知っていた。

「特に私のように、パパの二番煎じのような音しか出せない演奏家は、どんなに頑張ってもそれを乗り越えることはできない。パパですら自分の限界を悟って、ソリストの道を諦めたのよ」
「でも、真音ちゃんは毎日厳しい練習をして……夏休みもクリスマスも、お休みなんてほとんどなかった。あんなにバイオリンに賭けていたじゃないの」
「詩音……」
真音は必死に言い募る妹の頭を、幼いころそうしたようにそっと撫でた。
「この世界はただ「弾ける」だけで良いというものではないの。自らの身を削り、修練を積んで、それでも尚その上の高みを目指す。その覚悟と実力がなければすぐに周りに追い抜かれ、蹴落とされる厳しい場所なの。私の性格には向いていない。パパもきっとそれを感じていたからこそ、私にそう言ったんだと思うわ」


だが、実は妹の詩音には生まれ持った鋭い感性と強い自己主張、それに幼いながらも絶対音感の素質の片鱗が見えていたという。早くからその才能に気付いていた父親は、真音の時とは違って自分の手元で教えるのではなく、ゆくゆくはしかるべき指導者に彼女を任せようと考えていたようだった。
そんな矢先に起きた突然の事故。
両親を失ったショックが、詩音の感受性豊かだった部分を根こそぎ奪い去った。
残された家族として、また音楽を愛するものとしても何とか再びそれを引き出そうと試みた真音だったが、結局彼女は父親の代わりにはなれなかったのだ。

「もしあのまま運よく音楽学校に入っていたとしても、私はきっとどこかで挫折していたと思うの。子供の頃からずっと、バイオリンの音は身近にあるものだったから、決して嫌いではないわ。でも、私にはそれで身を立てるほどの強い気持ちは持てなかった。だから別の道を進んだ。それが本当の理由よ」

敢えて誰にもその気持ちを伝えたことはなかったが、彼女の演奏を聴いたニコラスは何か気づいたようだ。
『君のバイオリンがこんなにカナデの音にそっくりだと昔は気が付かなかったよ』
そして彼は、最後にこの一言で図星を指してきた。
『もし彼が今も生きていて、演奏を続けていたとしたら……恐らく君は彼と同じ道を辿ることでしか、生き残れなかっただろう。それを悟ったから音楽を諦めた。違うかい?』

「あいつ、何様?そんな失礼なことを言ったの?もう、こんなことなら日本に連れてくるんじゃなかった」
「詩音」
それを聞いて腹立たしそうな顔をする詩音を、姉は窘めた。
「それが彼らの常識なのよ。ニコはそれらを承知の上であの厳しい世界に自ら飛び込んだの。私と違ってね」
「……」
「彼、あんな風に飄々としているように見えるけど、ここまで来るのには口にできない悩みや葛藤があったはずよ。でもそれらをすべて乗り越えたからこそ、今の彼があるの。それをちゃんと認めてあげなくっちゃ、彼だってかわいそうよ」
「でも……」
「それに、忙しい時間を割いてわざわざここまで来てくれたことにはちゃんと感謝の気持ちを表さないとね」
「……そりゃぁそうだけど」
渋々同意した妹に、真音が優しく微笑む。
「それでね、詩音。パパのストラディバリウスなんだけど、あなたさえよければ誰かに貸与しようかと思っているの」
「パパのバイオリンを?どうして?せっかく手元に戻って来た形見なのに」
驚く詩音に姉は諭ように言い聞かせる。
「いくら高価なバイオリンでも、飾っているだけではなんの意味もない、ただのオブジェでしかないわ。楽器は音を奏でてこそ価値が出るものなのよ」
「でも、それだったら真音ちゃんが弾けばいいじゃないの。弾けるんだから」
「詩音」
真音は少し困ったような顔で小さく首を振った。
「普通に、趣味としてなら私でも弾けるわ。でもあのバイオリンには、もっと大きな舞台が似合うと思う。たくさんの聴衆の前で、彼らを魅了する技量を持ったバイオリニストに奏でてもらうことがパパの遺志でもあると思うのよ」
「でも、パパの愛器を人手に渡しちゃうなんて」
「だから期間を決めて『貸す』の。才能のある人に」

能力はあっても経済的に高価な楽器には手が届かない。そんな若手の演奏家に名器を弾くチャンスを与えてはどうか。
それは父親の愛器が見つかったという連絡を受けた真音と夫が話し合ったことだった。まだはっきりとどういう形をとるかは決めていないが、今の案では嶺河の実家である朝倉家が後ろ盾となり、何らかの財団を設立してというのが一番現実的といえそうだ。
いっそ誰かに譲ることも考えた真音だったが、それは夫に退けられた。その理由は、「もしかしたら、将来自分たちの子供が世界の大舞台でそのバイオリンを弾く時がくるかもしれない」から。
それを聞いた詩音は、あまりに義兄らしいその言いように、思わず声を出して笑った。
「分かったわ。私に異存はないから、良いようにして」
そして膨らんだ姉のお腹を見てこう付け加えた。
「親の期待を一身に背負うあなたも大変ね。もう本当に嶺河義兄さんって、生まれる前から親ばかなんだから」



翌朝、迎えに来てくれた車に乗り、詩音は別荘を後にした。
次は姉の出産時期に合わせて帰国する予定で、またふた月もしないうちに日本に戻ってくることになりそうだ。
「それじゃ、戻ったらニコによろしく伝えておいてね」
「分かった」
幼いころからずっと重石のように心につかえていたものがなくなった彼女は、晴れやかな笑顔で姉に向かって手を振る。そんな妹の様子を見た真音もまた、長年胸に蟠っていたものが消えていくのを感じていたのだった。




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