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復讐は甘美な罠 9


その夜、レイチェルとアレックスはハミルトンの屋敷に宿泊することになった。
気が付けば時間は深夜になっており、アレックスがすっかり寝入ってしまったためだ。
だが、初めて来た見ず知らずの他人の家に泊まるなどととんでもないと、レイチェルは最後まで難色を示した。

「今夜はこのままここに泊まるといい。明日、仕事に間に合うように家まで送らせよう」
運転手がすでに帰宅してしまったと聞かされて、彼女は仕方なく同意した。
この時間にハイヤーを呼んで家に帰るとなると、どれだけお金がかかるか分からない。
無駄な出費を出来る限り抑えたいレイチェルは、渋々ながらグラントの提案に従ったのだが…。
通常リムジンの運転手は通常24時間体制で、いつでも雇い主の行動に添えるように交代で待機している。今も電話1本ですぐに外出の手配をすることは可能だ。
だが、一庶民である彼女にはそれを知る由もなかったし、グラントも敢えてそのことを言わなかった。

彼にはある目論見があった。
レイチェルの部屋から帰る道すがら、計画を練っていたのだ。
それを実行に移すのにしばらく時間の猶予がいる。そのためにも二人を屋敷に足止めしておく必要があった。


−◇・◆・◇−


翌朝、夜が明ける前からレイチェルは起き出していた。
前夜はほとんど眠れなかった。
夜中に1度、泣き出したアレックスのおむつを替えたが、慣れない場所ですべてに手間取り、すっかり目が冴えてしまったのだ。
それに今日は日勤なので、8時までに病院に行っていなくてはならない。
遅刻をしたくなければ、かなり早朝にここを出て家まで送ってもらうことになるのだが、それを誰に伝えればよいのかさえも分からないという焦りもあった。


6時少し前に部屋のドアをノックする音がした。
「どなた?」
「私だ。朝食の準備ができた。仕度が済んでいるなら案内するが」
レイチェルがドアを開けると、そこには昨夜よりも幾分カジュアルな格好をしたグラントが立っていた。
「折角ですが、朝食は遠慮させていただきます。すぐにアパートに戻らないと仕事に遅れてしまいますから」
片腕にアレックスを抱き、そう言いながらもう片方の手で荷物を持とうとする彼女の腕を、グラントが押さえる。
「そのことで君に提案がある。朝食を摂りながら話をしよう」
「でも時間が…」
彼は困惑するレイチェルの腕からアレックスを抱き取ると、彼女の抗議の声も聞かず、踵を返した。そして後ろを振り返ることもせずに、さっさと廊下を進んでいく。
まるで後ろをついてくるのが当然と考えて疑わないことに彼女が立腹していることなど、お構いなしの様子だ。
レイチェルはふと気付いた。
きっと彼はいつもこんな風なのだ。
自分が常に先頭に立ち、他の人間は彼の後ろつきに従うことが当たり前になっている。

なんて傲慢な男なの。
彼女は腰に両手を当てたポーズで、憤慨しながらしばらくその後姿を眺めていた。

「ついて来ないと迷うぞ」
肩越しにそう言われてはっとする。
アレックスを連れて行かれそうになって、レイチェルも慌ててその後を追った。


朝食はテラスに張り出したサンルームに用意されていた。
まだ早朝で日差しはないものの、開けられた窓からは爽やかな風が吹き込んでいる。
先に部屋に入ったグラントはアレックスをベビーラックに下ろすと、自ら椅子を引いて、レイチェルにそこに座るよう促した。
「ありがとうございます」
高級なレストランでしか見かけないような行為をされて、ぎこちなく椅子に腰を下ろす。
見ると、すでにテーブルの上には朝食としては充分すぎるほどの食事が並べられていた。
「好きなものを取りたまえ」
コーヒーとオレンジジュースが運ばれてくると、彼女は目に付いたものから順々に食べ始めた。
困ったことにグラントと向き合って座っていると、何か食べていないと間が持たないのだ。
忙しくフォークを口に持っていく合間にちらりと上目遣いに見た彼は、くつろいだ様子で新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。
話しかける話題もない彼女は仕方なく、ただ黙々と食事を口に運んでいた。

「要らないと言った割にはよく食べるな」
ぼそりと呟いた彼の言葉に、口一杯にトーストを頬張っていたレイチェルがむせた。
「体力が勝負の職業ですから。摂れる時にちゃんと食事をしておかないと、次にいつ食事がとれるか分からないし、場合によっては昼食を食べる時間がないことだってありますからね」
オレンジジュースでパンを流し込んだ彼女は、詰まった胸を拳で叩きながら涙目でそう答えた。
「看護師とはそんなに激務なのか?」
「ええ。でもどこの病院でも状況は同じだと思います。経営が厳しくて、人件費を削減すれば真っ先に病棟に皺寄せがきますから」
彼女が勤務する総合病院も、世間のご他聞に洩れず経営状況は思わしくない。
患者は増える傾向にあるのに、スタッフの数は減る一方だ。
だが正直なところ、レイチェルにはその方がありがたかった。
必要とあらば、勤務時間を延長したり、余分な夜勤を引き受けて、多少なりとも経済的な余裕を得られるからだ。
アレックスを養うようになってからは、特にその恩恵を感じることが多くなったのは確かだ。

「で、ここから本題なのだが」
新聞を折りたたんでテーブルの上に置いたグラントが、自ら二人のカップにコーヒーのおかわりを注ぐ。
「君に…君とアレックスに暫くこの屋敷に滞在してもらいたい。君たちが来てから急に祖母が落ち着いたのだ。主治医とも相談したのだが、もう少し容態が安定するまでここにいてくれないだろうか」
それを聞いたレイチェルが顔を顰める。
ここは彼の屋敷だ。言うならば彼女にとってはアウェー(敵陣)のど真ん中。
普通ならばそんなことはできないし、したくもないと突っぱねるところだが、彼の祖母が見せた喜びの表情を思うと、即断で撥ね付けることもできない。
「ここに…ですか?」
しかし、これが昨夜まで彼女に対して見下げた態度をとっていたグラントの提案であることに、レイチェルは何か引っかかるものを感じていた。

「でも、ここから病院まで毎日通うことは不可能です。それに、アレックスの保育園のこともあるし」
「そのことならば、君の仕事先とは話をつけた。君がここにいる間、病院の方は休職扱いになる。アレックスも一緒にここにいるのだから、敢えて保育園に預ける必要はないだろう」
「えっ?休職ですって?」
レイチェルは話の成り行きに憤然とした。
「一体あなたに何の権利があって、そんな勝手なことをしたのよ?」

財政的に余裕のない仕事先は、もちろん休職中の給与の補償などしてはくれない。
それ以上に心配なのは、休みを取ったあと、元のポジションに復職できるかどうかだった。
今のキャリアと待遇は失いたくない。でなければ、たちまち生活に困ることになってしまう。
「心配しなくても、君の休職中の損失分はこちらで持つということで話はできている。あとは君の返事次第だ」
信じられないと言う顔をするレイチェルに対して、グラントはあくまでも冷静な口調を崩さない。
彼女には、グラントが何を思って急にそんなことを言い出したのかが、まったく理解できなかった。

「でも、私はここで一体何をすれば…」
「言わずもがな、君は看護師だ。今日から君に祖母の専属看護師を勤めてもらいたい」
「専属…看護師?」
「そうだ。今までは主治医のところから看護師を派遣してもらっていたが、これからは君にその仕事をしてもらうことになる。日常生活の介護も併せてだ。
祖母は今ではベッドから起き上がることさえままならない状態だから、昼間は病室で付きっきりになるだろう。
契約期間は…祖母の最後を看取るまでと言っておこう」
グラントの顔に暗い影が落ちる。
彼にとって、祖母の死期が迫っているという非情な現実は、受け入れがたいものなのだろう。
「でも…」
「もちろん、ここにいる間の充分な謝礼はする。もとの職場への復職も保証する」

明らかに尋常ではない好待遇に、レイチェルは戸惑っている。
「それに、これは祖母の希望でもあるのだ」


そこまで言われてしまえば、彼女が断ることができなくなるのは計算づくだった。
彼の本当の目的は、レイチェルを外の世界と切り離し、屋敷に囲い込むこと。
その上でゆっくりと懐柔していけばいい。
そして、役目を終えた後は、彼女にはここから一人で出て行ってもらう。
アレックスが二度とこの家から離れることはない。

彼の仕掛けた狡猾な罠に少しずつ、だが着実に追い込まれつつあることに、この時レイチェルはまだ気付いてはいなかった。




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