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復讐は甘美な罠 7


「で、お話って何ですか?弁護士さんがお越しになるので手短にお願いしたいのですが」
グラントに椅子を勧めるでもなく、自分も立ったままでレイチェルが事務的に切り出した。
彼女の手には、冷ましかけのミルクが入った哺乳瓶が握られている。
「いや。今夜ここに弁護士は来ない。私がキャンセルした」
レイチェルは露骨に嫌な顔をしながら彼を睨み付ける。
「せっかく急いで帰ってきたというのに。まあいいわ。でもこの先いつ時間が空いてお会いできるか分かりませんから、弁護士さんにもその点をちゃんとお伝えくださいね」

彼女の嫌味にも動じず、グラントはゆっくりと窓の方に近づくと、ラックを覗き込んだ。ミルクを待つアレックスは機嫌が悪く、ぐずぐずと泣いている。
「この子に近づかないでと言ったはずよ」
哺乳瓶を手にラックに近づくと、彼女はグラントを押し退けるようにしてアレックスを抱き上げ、ソファーの端に腰を下ろした。

「慣れたものだな」
手際よく赤ん坊を横抱きにしてミルクを与える彼女を、グラントが上から眺めていた。
「一応、これでも母親ですから」

アレックスの産みの母、マデリンは極度の産後鬱にかかり、体調を崩してしまった。そんな時に風邪から肺炎を併発して、あっという間に命を落としたのだ。
これまでも一日中ほとんど部屋から出られない生活をしていた妹に代わって、何かと赤ん坊の世話をやいてきたのは、他ならぬレイチェルだったが、今それを彼に告げる必要はない。

「で、どのようなご用件ですの?」
グラントを見ないようにアレックスに視線を置いたまま、レイチェルが再度問いかけた。
どうもこの男性が側にいると落ち着かない。居丈高な男性は職場の医師の中にも大勢いるが、彼ほど強烈な存在感のある者はいなかった。

「この子が君の実子ではないことは調べがついている。母親は妹さん…ミズ・マデリンだ。そして父親は――」
「父親はいません。この子は私の子供。それでいいではないですか?」
「だが、DNA鑑定の結果はそうは言っていないようだ」
「DNA鑑定ですって?」
レイチェルは顔色を変えて、上から見下ろしている男の顔を睨み付けた。
「誰の許可を得てそんなことをしたんですか?勝手にサンプルを盗むなんて、泥棒と同じだわ」


赤ん坊のサンプルを手に入れるのは簡単だった。
アレックスがかかりつけにしている病院の関係者を抱きこんだのだ。
その結果、98%以上の確率でジェフリーとの親子関係が証明された。
だが、グラントはアレックスの容貌を見て、結果を知る前から彼がハミルトン家の血筋を持つ子供だと分かっていた。
鑑定はそれを科学的に裏付ける証拠でしかない。

「ジェフリーの遺産はすべてこの子に譲られる。株式等、常時管理が必要なものを除いては、成人後に受け取れるよう信託財産にすることになるだろう」
「そんなもの、必要ないわ」
レイチェルは無意識に残り少なくなった哺乳瓶を傾け、ミルクを飲み口に寄せた。
食欲旺盛なアレックスは、それを飲み干そうと乳首に吸い付いてくる。

「だが、その子にすれば当然の権利だ。今後の生活はもとより、医療、教育、環境に至るまで、ハミルトンの名の下に全て最高のものが約束されているのだからな」
「でも愛情までは保証できないでしょう?何せあなた方は、かつて妹を…この子を容赦なく切り捨てたのですからね」

痛いところを突かれたグラントが渋い顔をする。
「だが、ハミルトンを名乗ることで、将来を保証されたも同然だ。環境は人間を作る。この子も早くからそうした生活に馴染ませることが必要なのだ」
「それは、どういうことです?」
まるで自らがそうさせると言わんばかりの彼の言い草に、レイチェルは首を傾げた。
「もちろん、その子を手放した後の君にもそれ相応の謝礼はする。一生働かなくても生活していけるだけの充分な金銭を…」
「…要りません」
彼の言葉を遮るレイチェルの声が怒りに震える。
やっと彼女にも彼の言っていることが理解できた。
彼はアレックスに父親の遺産を継がせると言っているだけではなく、自分の手元に引き取り、レイチェルから引き離そうとしている。
あまつさえ、この男は彼女に金と引き換えにアレックスを「売り渡せ」と迫っているのだ。

かわいいわが子を、他人に売る親がどこにいるというのか。
腹を痛めて産んだのではないけれど、アレックスは彼女にとってわが子同然、自分の命よりも大切な存在だ。
生まれる瞬間に立会い、今までずっと見守り続けてきた。その成長の一つ一つが彼女とアレックスの親子としての絆でもあるのだ。
そんな大事な子を、ある日突然現れた酷薄な男に簡単に渡すとでも思っているのだろうか。
それも汚らわしいお金と引き換えにして。

馬鹿にするにも程がある。
レイチェルは不快感を隠そうともしなかった。
「例えあなたの全財産を積まれてもアレックスは渡さない。どうしてもこの子を連れて行きたいのならば、私を殺してからそうすることね。
さあ、お帰りになってください、Mr.ハミルトン。ご用件はもうお済みのはずでしょう」
「いや。そういう訳にはいかない。その子は明らかにハミルトン家の子供だという確証がある。こんなところに放置しておくことはできない」
「こんなところ、ですって?」
今やレイチェルは烈火の如く怒り、爆発寸前だった。
「出て行って。あなたの顔なんて金輪際見たくもない。ここで同じ空気を吸うのも御免だわ」
荒げた声に敏感に反応したアレックスが、びくりと体を震わせた。彼女を見つめる目が驚いたようにまん丸になっている。

「それに今日私がざわざわここに出向いたのは、ジェフの息子を連れて帰るためだ。その子に会わせたい人がいる」
レイチェルの憤怒を無視して冷然とそう告げたグラントは、内ポケットから取り出した携帯電話で短い通話を済ませると彼女の方に向き直った。
「下に車を待たせている。君も一緒に来るつもりなら、すぐに準備を始めてくれ」
「何で私たちがあなたと一緒に行かなくてはならないわけ?私はどこにも行かないわよ。もちろん、アレックスもね」
「いや、来てもらう。君がいやだと言うなら、その子だけでも連れて行く」
「そんなの誘拐と同じじゃない」
「父親の親族が会いたいと言っているのに、それを拒む方がどうかしているとは思わないのか」
「よくも今更、親族だなんて言えるわね。何が父親よ。恥を知りなさいよ」
二人が言い争う様子に怯えたアレックスが、遂に泣き叫び始めた。
「もう少し小さい声で泣けないのか?」
その泣き声の凄まじさに思わず顔を顰めたグラントを、レイチェルが呆れたように見つめた。
「赤ちゃんに音量調節機能なんてついているわけがないでしょう?大体、この子を誰に合わせたいって言うのよ?」
「私の祖母だ」
「あなたの?」
「この子の父親の祖母でもある。ほとんど寝たきりで、もう長くはないと医者に言われている。彼女が赤ん坊に会いたがっている。今のうちに曾孫の顔を見せておいてやりたいのだ」




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