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復讐は甘美な罠 5


彼女の部屋から追い出されるように立ち去った後、グラントはしばらく呆然とアパートメントの前に立ち尽くしていた。
あの子は弟の、ジェフリーの赤ん坊の頃の姿に瓜二つだった。
レイチェルはああ言っていたが、あそこにいた子供がハミルトンの血を引いていることは間違いない。
本当は誰があの子の母親なのかも、調べさせればすぐに分かることだった。

たとえ相続の問題が片付いたとしても、このまま、あの赤ん坊を放っておくことはできない。ハミルトンに私生児が存在してしまうことになるからだ。

早く何とか手を打たなければ。

決して恵まれているとはいえないこの状況で育つ子供が、将来ハミルトンの根幹を揺るがすようなことになれば一大事だ。あの子にはハミルトン家の人間として、それに相応しい名と環境、そして教育が与えられなければならない。
だが…

グラントは、彼女の部屋を見上げながら重い溜息を漏らした。
あの様子ではレイチェルが素直に話しに応じることはないだろう。
ましてや今、あの赤ん坊は母親が受け取るはずだった莫大な遺産を相続する権利を有する唯一の相続人なのだ。彼にはレイチェルが簡単にその富を手放すとは思えなかった。

今まで金銭目当てでハミルトンに近づいてきた女たちは、ことごとくその「金」で決着を着けてきた。
大概の場合は彼の言い値で「こと」は収まる。だが、それ以上を貪ろうとする輩には裁判に持ち込んででも相手を完膚なきまでに叩きのめす。それがハミルトンのやり方だ。

メイフラワーにまで遡れ、『アメリカの貴族』とまで称されるハミルトン家。
その由緒正しい家系に生まれた者は、生まれながらにして莫大な富と権力を手にすることになる。故におのずから自らを律し、不要なものは切り捨てる術を身につけることになるのだ。
だが、弟は…ジェフリーはその冷徹さを欠いていた。
今までも、生来の気弱さにつけこまれ、窮地に陥るたびに兄であるグラントが尻拭いをしてきたのだ。
そして、最後の最後に取り返しのつかないことをしでかしたまま、逝ってしまった弟。
「くそっ、何てことだ」
グラントは、待たせていた車の屋根を思い切り殴りつけた。


一年前、彼はジェフリーとマデリンを無理やりに引き離した。
当時、ジェフには家同士で決められた婚約者がいたからだ。
相手は上院議員の娘で、ハミルトンとも取引のある名家の令嬢。資産も家柄も文句のない縁組だった。
かたや、ジェフが連れてきた女性はまだ未成年。その上彼女の家柄も、将来ハミルトンを背負って立つ人間となるジェフの妻となるには相応しいものではなかった。

だが、弟は生まれて初めて兄と一族の意向に逆らった。
結婚に反対されると、会社を辞め、家を出てでもマデリンと一緒になると言い放ったのだ。
もしもあの時、母親代わりに兄弟を育ててくれた病床の祖母が思いとどまるように懇願しなかったら、弟は間違いなく家を飛び出していただろう。
グラントは、マデリンのことは一時の気の迷いと決めつけ、ジェフを本国から遠く離れた外国の支社に送り出した。
無論、弟は抵抗したが、兄の、ハミルトンのオーナーの決定は絶対だ。
それからは何度もあったマデリンからの電話や手紙を一切取り次がず、ジェフの方からも連絡が取れないように仕向けたのだ。
それでも一年近く、彼女からの連絡を乞う手紙はグラントの手元に届き続いていた。
最近になってようやくそれがなくなり、やっと諦めたのかと思っていた矢先に、いやいやヨーロッパに送り込まれ、荒れた生活を送っていたジェフが、自動車事故を起こし帰らぬ人となったのだ。
泥酔した状態で、車を暴走させた弟は、ガードレールを突き破り30mも下の海へと転落した。
一時は自殺説まで出るほどの無謀な運転。
誰も巻き添えを作らない、単独事故だったのがせめてもの幸いだった。
この時も、全て後始末をしたのはグラントだった。
ゴシップになることを避けるために、できるだけ穏便に事故を処理させ、葬儀も内輪で済ませざるを得なかった。
そして最後に来たのが、この「遺産騒動」だ。
弟にしてみれば、自分の思い通りにならなかったことに対する意趣返しのつもりだったのかもしれないが、その結果はハミルトンの信用を揺るがすに値する、重大な不始末となり得た。
「一体あいつは、どこまで世話をかければ気が済んだのか」

父親亡き後、一族と会社に対する責任はグラントが一手に引き受ける形になったが、それもすべてジェフリーが自分の義務を放棄したからだった。
本来ならば共に責を負うべき弟がそれを受け入れることを拒んだことで、グラントは一人でその重圧に耐えざるをえなくなった。
当主としての重すぎる責任が、彼を孤独な独裁者へと変えていったのは、必然だったといえるかもしれない。

彼とて何度となくすべてを投げ出したい衝動に駆られたことはある。
弟のように、後先を考えず自分の衝動のおもむくまま何もかも放り出すことができたなら、どんなにか自由になれただろう。幼い頃から束縛された生活を強いられてきた彼には、それを望む機会すら与えられなかったのだ。
しかし、それでもグラントは、父親に叩きこまれた当主としての信念を曲げることはできなかった。

―― 己の力以外の、何ものも信じるな ――

感情に流され弱気になれば、たちまち周囲に群がる金目当てのハイエナたちに家ごと食い尽くされてしまう。
ハミルトンのトップに立つ者は、常に冷徹であらねばならなかった。

それは重過ぎる伝統に縛られた、旧家を統べる家長に課された過酷な宿命だった。




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