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復讐は甘美な罠 36


グラントが意識を取り戻したのは翌日の午後になってからだった。
「こ…こは?」
「病院です。あなたは事故に遭われたのです。覚えていますか?」
看護師の知らせで病室に駆けつけた医師は、バイタルサインをチェックしながら問いかけた。
大きな息を一つつくと、彼はかっと目を見開いて思い出したように声を上げた。
「レイチェル。レイチェルは、妻は…」
「大丈夫ですよ、落ち着いてください。奥様は無事です。軽い擦り傷くらいで済んで、ぴんぴんしていらっしゃいますよ。今お宅に戻られて休んでおられますから、安心してください」
「ああ、良かった…」
唸るような声でそう言うと、グラントはやっと体の力を抜いた。


体中が痛むが、薬のせいで全身に倦怠感を覚える。頭痛がひどく、点滴で固定されていない方の手で額を触ろうとした彼は、その違和感に気がついた。
「腕が…」
「ミスター・ハミルトン、残念ですが左の肘から下の部分は手のほどこしようがありませんでした。傷が広範囲で状態がかなりひどくて」
医師は事実を淡々と告げる。
「奥様は看護師だそうですね。見事な応急処置でした。
ここに搬送された時、事故からかなり時間が経過していたので普通なら出血多量で死亡するか、深刻なショック状態に陥っていてもおかしくない状態だったのですが、奥様の処置で出血は最小限に抑えられていた」
看護師に指示を出した後、彼は最後にこう締めくくった。
「あなたの命が助かったのは、奥様のお力ですよ」


それから20分後、連絡を受けたレイチェルが病室に駆けつけた。
今し方処置が終わり、医師が何かを彼に説明しているところだった。
「ああ、奥様がいらっしゃった。ちょうど良いタイミングでしたね」
彼は処置の後片付けをしていた看護師を促すと、レイチェルに場所を譲り、病室を後にしようとする。
「先生…」
すれ違いざまに医師は彼女に囁いた。
「まだご主人には何も言ってませんからね。ご自分で伝えてください」


「レイチェル」
グラントの呼ぶ声に振り返ると、彼がこちらを見つめていた。
側に行くと、彼は点滴の刺さった右手を差し出して、彼女の腕を掴んだ。
「怪我はなかったのか」
レイチェルはベッドの上に屈むと、彼の顔をのぞき込んだ。
「ええ。あなたのお陰よ」

グラントの顔に安堵の表情が浮かぶ。
「君が私の命を助けてくれたそうだな。礼を言わせてくれ」
首を横に振りながら、レイチェルが涙ぐむ。
「あなたが命がけで私を庇ってくれなかったら、私はあなたを助けることなんてできなかった」
レイチェルは点滴を除けるようにグラントの手を取ると、自分の頬に押し当てた。
「あなたは私を…私たちを守ってくれたのよ。感謝するのは私の方だわ」

ふとその言葉の違和感に気付いたグラントが、怪訝そうな顔をする。
「私たち?」
レイチェルは泣き笑いの表情で頷いた。
「ええ、『私たち』よ。検査して判ったの。お腹に赤ちゃんがいることが」


事故の後、レントゲンを撮ることになったレイチェルは、念のために病院側にその旨を伝えた。そのためレントゲン撮影は中止になり、代わりに血液検査と尿検査をされたのだ。
まだ6週目から7週目あたり。
本人にもまったく自覚がなかった。

「赤ん坊は大丈夫なのか?君は?」
驚きに目を丸くしたグラントが、思わず起き上がろうとするのを慌てて止めたレイチェルが、笑って答える。
「今のところ問題ないみたい。まだ自分でも実感が湧かないけれど」

グラントは再び枕に頭をつけると、戸惑いを含んだ声でこう漏らした。
「まさか、言ったことが本当になるとはな」
「これでちゃんとあなたの『妻』としての役目が果たせるかしら?」
レイチェルの茶化すような言葉に、つい顰め面をしてしまったグラントは頭の痛みに呻いた。
「それを言うな。もう充分に反省はした」


彼女の中に自分の血を分けた子供が宿っているということに、グラントは改めて人生の不思議なめぐり合わせを感じていた。
最初はアレックスを引き取るためだけに彼女に罠を仕掛けた。そして、次に結婚を駆け引きの道具に使った。
だがグエンドリンの死後、彼のしてきたことがすべて祖母の思惑の中にあったことを知ったとき、自らも祖母の書いたシナリオに踊らされていたことに気がついたのだ。

結局一番狡猾に策を弄したのはだれだったのか…。
グラントは目を閉じて自分に問うた。
だが、出た結論は、「今となってはどうでもよいこと」だった。
例えそれが祖母の差し金であったとしても、彼はレイチェルを通じて「愛する」術を学んだ。
そして、結婚生活の瀬戸際で夫として、父親として、何物にも代えがたい妻と子供を失うことなく守ることができた。
これ以上、何も望むことはない。


彼はふうと大きな息をついて、ベッドの側の花瓶に挿された一本のバラの花に目を留めた。病室に似つかわしくない、甘い芳香を放つ大輪の真紅のバラ。
それが彼女に贈るはずだった花だと気付き、しばらくそのバラを眺めた後、失った左腕を見つめた。

「この腕一本で君の、いや、君たち二人分の命を守れたと思えば、惜しくはない。ただ、これから先、君を抱きしめるのに片腕しか使えないのは不便だな」

レイチェルはベッドに屈みこむと、グラントの頬をそっと撫でた。
「大丈夫。その時には、私があなたの分まで抱きしめてあげるから」
彼女は笑顔でそう請合った。




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