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復讐は甘美な罠 35


事故後すぐ、夜遅い時間にも関らずローランド弁護士が病院に駆けつけてくれた。
「グラントは?」
「まだ何とも…」
ただ待つしかないレイチェルは、力なく首を振る。
断ってから彼女の横に座ると、ローランドは手術室の扉を仰いだ。
「ああ、何ということだ。ようやく彼が決意をしたと言うのに」

放心状態のレイチェルが、ぼんやりとした目を向ける。
「決意?」
その虚ろな声にローランドは気付いた。
彼女はまだ、グラントから何も聞かされていないのだ。今の茫然自失の状態から見て、何か彼女の心を支えるものが必要だった。

「ええ、今夜彼があなたに伝えようとしたことです」
それを聞いたレイチェルが、顔を背ける。
彼女が何か良くないことを思い煩っているのを見て取ったローランドは、慌てて「本来ならば自分が仔細を言う立場にはないのですが」と前置きをした後、彼女に今朝グラントと話したことの内容を語った。

「グラントは本気でこの結婚から契約を排除しようと考えていました。彼自身、自分にとって何が一番大事なことかに気づいたのです。
そして今夜、あなたにそれを伝えて、もう一度プロポーズをし直すのだと」
「プロポーズを…し直す?」
「ええ。今度はちゃんとレストランを予約して、花束を用意して。普通の恋人たちのように気持ちを伝えるのだ、と彼は言っていましたね」

虚ろだったレイチェルの目に光るものが溢れてくる。
グラントはこの結婚を解消しようとしていると思っていた。
だが、彼は解消するのではなく、本物の結婚にしようとしていたのだという。
「ああ、グラント、どうして…」
ようやくレイチェルの願いが叶えられようとしたというのに、あろうことか今、グラントは生死の境をさ迷っている。

「しっかりしてください。こうしてあなたが待っているのですから、グラントは絶対に助かる。まだあなたに思いを伝えていないのです。彼は自分がやるべきことを諦めて途中で投げ出すようなことは絶対にしない。責任を果たすためならば、地を這ってでも必ずここに戻ってくる。彼はそういう男です」



ローランドの言葉通り、グラントは重症を負っていたが一命を取り留めた。
主な外傷は全身打撲と数箇所の骨折。ただし、左腕は完全に潰れ、粉砕骨折していた肘から下の部分は切断するしかなかった。


「ミセス・ハミルトン?」
病室の入口から呼びかけられたレイチェルは、声のした方に目を向ける。
そこには医師ともう一人、見たことのない男性が立っていた。
「ちょっとお時間をいただけますか。お話を聞かせていただきたいのですが」
彼は警察官で、身分証明書を見せると彼女に事情聴取の許可を求めた。

病室から出て廊下の突き当たり、休憩所になっているスペースで、レイチェルはその男性と向き合った。
レイチェルが覚えている場面の簡単な話を終えると、警察官が事故の状況を説明し始める。
「ローリーの運転手は即死でした。凍った路面でスリップしたあと、ハンドルを取られて反対車線に入り込んだようですね。タンクが空で、爆発を引き起こさなかったことが不幸中の幸いでした。
あと、あなたがたの車の後続車も何台か巻き込まれて、多数の怪我人が出ています。雪で視界が悪かったのと、急ブレーキでスリップした車がどんどん玉突き状態になってしまいましてね」

自動販売機で買ったコーヒーを啜りながら、警察官が溜息をつく。
「ひどいもんですよ。現場はまるでスクラップ工場みたいだ」
レイチェルはコーヒーには口をつけず、温かいカップを握り締めたまま身震いした。
眩しいライトの光がどんどん迫ってきた瞬間の、そして鉄の塊が目の前でぐにゃりと曲がっていたのを目の当たりにしたあの時の恐怖は一生忘れられないだろう。
「奥さんは幸運でした。あれだけの事故に遭ってかすり傷で済んだんですからね。ご主人のお陰ですよ」
「主人の?」
「ええ、今現場の検証をしているところですが、ご主人のハンドルの切り方には驚かされましたよ。彼は咄嗟にハンドルを右に切っている」
意味が分からず困惑するレイチェルに、警察官が身振りをつけて説明する。
「普通、ドライバーは咄嗟の危険を回避する時には本能的に左側の運転席、つまり自分の側を庇おうとする。つまりハンドルを左に切るのです。ですが、ご主人は迷わずハンドルを右に切った」
「それは…?」
「つまり、彼は自分が盾になって奥さん、あなたが座っていた助手席を守ろうとしたということですよ」



病室に戻ったレイチェルはベッドの側に置いてある椅子に座り込んだ。
あの後、警察官は信じられない話をした。
大破した車のトランクには抱えきれないほど大きなバラの花束が入っていたというのだ。もちろん、トランクも滅茶苦茶に潰れてしまったため、「花束の残骸」となってしまったらしい。
彼はその中から、辛うじて何とか形を残していたという一本のバラをビニールの袋から取り出して、レイチェルに差し出した。
「現場では『今日は何か記念日でもあったのかねぇ』と話してたんですよ」
警察官はレイチェルを気遣いながらそう語った。
彼女は無言でそれを受け取ると、大事そうに胸に抱いた。


「グラント…」
点滴の針を避け、レイチェルは彼の右手を握った。
グラントの左腕の肘から下はすでにない。
彼は特に左半身にひどい怪我を負っていたが、それも咄嗟に彼女を庇ったせいだと分かった。失った腕はレイチェルと車体の間に入り、クッションになって彼女にかかるはずだった衝撃を受け止めていた。


「ミセス・ハミルトン、ちょっとよろしいですか?」
担当の医師が彼女を呼んだ。
「少しお休みになられた方がいい。あなたも同じように事故に遭われたのですから、身体を休めないと」
「でも、主人が…」
「今のところ容態は安定しています。大丈夫ですよ。今、ご主人の意識が戻らないのは、点滴に痛み止めと睡眠剤が入っているからです。多分あと半日ほどはこのままでしょう」

「でも…」
レイチェルがベッドを振り返る。
それを見た医師が彼女に微笑みかける。
「あなたもちゃんと休息をとるべきです。いや、取りなさいと、医師として私が命じます」
その言葉に困惑するレイチェルに、彼が耳打ちした。
「大事な身体です。無理をしてはいけませんよ」




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