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復讐は甘美な罠 33


翌朝、グラントは朝食も摂らずに家を出た。

昨夜はまんじりともせずに一夜を過ごした。
結局レイチェルは寝室には現れなかった。あの状況では顔を合わせ辛いこともあるのだろうが、それでもグラントは心のどこかでレイチェルを待っていた。

あんな言い方をしたのは間違いだった。
自分から彼女の元に出向いてそう一言告げればすむことなのに、どうしても言えなかった。
あの時自分はいったい何にそんなに憤ったのか。そう思い返しても明確な答えが出てこない。

確かにレイチェルの言うことは理解できる。
生まれた時から特権階級にいた人間には当たり前の贅沢でも、どうしても彼女はそれが我慢ならないと思っていることが多々あることは、前々から分かっていたことだ。
だが、怒りの本質はそれではないと感じていた。
彼は妻が外で働くことに異義を唱えたかったのではない。レイチェルがそれをグラントに隠していたことが彼を激昂させたのだ。

なぜ?
自分が疎外されたように思えたから?それとも、彼女の意識が自分以外のものに向くのがいやだったから?
いくつかの理由を思いついてから即座に否定する。
そんなことはない。
互いを縛らないことが、この契約結婚の前提だったはずだ。今の考えはそのものずばり、レイチェルの、そして自分自身の自由をも妨げるものではないか。

しかし考えれば考えるほど、レイチェルの目が外に向くことを厭う自分がいる。
妻を他の人間と分け合いたいと思う男が果たして世の中にいるだろうか。自分の領域は侵されたくないと思うのは人間の本能だろう。
レイチェルは私の妻だ。私が彼女を束縛してなぜいけないのか。
思考は独りよがりな堂々巡りを繰り返す。


グラントは迎えの車の後部座席で額を擦った。
一体自分はいつからこんなにセルフコントロールができなくなってしまったのか。
以前ならば、どんなに腹の立つ用件にも眉一つ動かさずに決断を下すことが出来た。冷静な判断が要求されるビジネスの世界で、感情は邪魔になるだけだ。
だが、レイチェルに向き合うと鋼のような自制心がたちまちに崩れてしまうことに、彼は言い知れぬ苛立ちを感じていた。 これは単なる契約と思えば思うほど、彼女に対して冷静になれない自分を持て余す。
こんな状況をビジネスと同列に並べておくことは、危険なことにさえ思えた。

では、結婚の契約を解消したら、レイチェルはどう出るだろうか。

彼女が「契約」という言葉を嫌っていることは薄々感じていた。人と人との繋がりは紙の上で作られるものではないというのが彼女の持論であることも知っていた。
ならば敢えてその「契約」を断ち切ってしまえば、縛られるものがなくなるレイチェルは夫である自分をどう扱うだろう。 彼は暫し考えを巡らせた。だが、彼女が自分を裏切る場面は一つも出てこない。思い浮かぶのは、常に彼に寄り添い、子供を慈しむ、勤勉で倹しい姿だけだった。
グラントは深い溜息をついた。
多分レイチェルにとっては今ある現実がすべてだ。
皆が幸せであれば、「契約」はその存在すら取るに足らない微細な事柄、単なる紙切れでしかない、というくらいにしか思っていないのかもしれない。
打算や綺麗事は彼女には無縁のもの。
それが私の妻であるレイチェルの本質だ。



オフィスに着くと、早速弁護士から連絡が入る。
「グラント、何かあったのですか?」
ローランドは探るような口ぶりだ。
「それはどういうことだ?」
「朝一番に奥様から電話があって、いろいろと質問されましたよ。自分の相続財産をそのまま誰かに譲るにはどうすれば良いかとか、アレックスの親権のこととか。別居を可能にするための条件もありましたね。守秘義務がありますからそれ以上詳しくは申し上げられませんが」
弁護士はレイチェルが直接彼に電話をしてきたことを話した。こんなことは今まで一度もなかったことで、ローランドはこのことをひどく心配していた。

「グラント、これは顧問弁護士としてではなく、あくまでハミルトンの古くからの知人としての私の苦言ですが、もう少しレイチェルにあなたの気持ちを分かりやすく伝える努力をするべきです。
傍目から見ていて、あなたが奥さんを愛していて、大事に守りたいと思っていることは理解できるのですが、彼女にはうまくそれが伝わっていないのではないですか?」
「私が妻を…そんな馬鹿な」
グラントのうろたえた声には気付かない振りで、ローランドが先を続ける。
「レイチェルは今まであなたの言葉の一つ一つに翻弄されてきました。そして、グエンが亡くなり、支えてくれるものがなくなったことで、もう彼女の心は限界に近づいている。
これを逃せば彼女は永遠にあなたの気持ちを知らないまま、あなたの元を去ることになるかもしれません」
「私の気持ちだと?」
「そう、あなたの気持ちです。グラント、あなたはレイチェルを失うことを何よりも恐れている。
だから彼女を常に何かで縛っておこうとしてしまう。それがアレックスの親権だったり、グエンの病状だったり、結婚だったり、とね。
違いますか?」

何も言葉を返さないグラントに、ローランドは畳み掛ける。
「しかし、庇護と束縛は紙一重です。受ける相手の気持ちによって感じ方はまるで変わってきてしまう。
自分の気持ちを認める時ですよ、グラント。彼女は本気であなたと別れる道を探り始めている。これがレイチェルの心を引き戻す最後のチャンスかもしれない。だから、あなたも捨身の覚悟で彼女に向き合うことです」



受話器を置いたグラントは、どさりと椅子に沈み込んだ。
「私がレイチェルを…愛しているだと?」

家族を守るのは家長として当然のことだ。そして、妻を外敵から遠ざけることは夫としての義務だ。
だが、それを嫌って彼女の方から離れていこうとするならば、自分はどういう行動を取るべきなのか。
黙って行かせるか。
否、それはできない。彼女は私の妻なのだ。
では自由を奪い、どこかの部屋にでも閉じ込めるか。
無駄だ。そんなことをしても、彼女ならば何としてもそこから抜け出すだろう。
そもそも、何故私は彼女を行かせることができないのだろう。妻の座の後釜を狙う、代わりの女はいくらでもいるのに。

この結婚は、最初は偽装、アレックスを手元に置くための手段だった。
だが、今や彼女は名実共に本物の妻となり、アレックスは自分の息子となった。二人を手放すなどということは最早考えられなかった。
私の生涯の伴侶はレイチェルでなければならない。もし彼女が去ってしまったら、誰もそこに開いた穴を埋めることはできないだろうし、そんなことには自分が耐えられない。
こんな感情を持ったことは、今まで一度もなかった。
彼女を失いたくない。いつも側にいて欲しい。穏やかな表情を見て、柔らかな笑い声を聞いていたい。
レイチェルが自分から離れていくことを考えただけで胸が張り裂けそうになる。
たとえ手足がもぎ取られても、これほどの痛みは感じないかもしれない。それほどレイチェルを、彼女のすべてを失うのが恐かった。
「これが人を愛するということなの…か?」



グラントは急いで再度、ローランド弁護士に電話を入れた。
そして、大きなある決断をしたことを、彼に伝えた。
契約結婚の解消。
その場で再度プロポーズをして彼女が受け入れてくれたら、ちゃんとした普通の結婚をし直したいとグラントが告げると、ローランドはそれを二つ返事で了承した。そして、彼に代わって彼女に連絡を入れることも快諾してくれたのだ。
ただし、それには一つ条件が付いていた。
「契約の解消に先立って、あなたが彼女に理由を説明するべきです。ちゃんと本心を伝えるチャンスですよ」



その日の午後、レイチェルは二本の電話を受けた。
一本はローランド弁護士からのもので、結婚時の契約について、グラントから変更の申し出があったことを伝えられた。近いうちに、それについての説明をしたいとの内容だった。
そしてもう一本はグラントの秘書からだった。
大事な話がある。今夜一緒に夕食をとりたいので、外出する用意をしておくようにとの伝言だった。


グラントからの話。
それはこの結婚の解消だろうか。折りしも、ローランド弁護士からもその件で何か用件があると言われていた。

この結婚の行く末はどうなっていくのかわからない。
もしかしたら今夜、別れ話を切り出されるかもしれない。
レイチェルは嫌な予感に身震いした。
できれば何も聞きたくない。だが、このまま結論を先送りしていても互いが苦しむだけならば、決断は早い方が良いのかもしれない。

その時、レイチェルは静かに運命を受け入れる覚悟を決めた。




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