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復讐は甘美な罠 32


その日の午後、グラントの元に一本の電話がかかってきた。普通ならば秘書に適当に対応させるところだが、「病院からだ」と聞かされたグラントは、慌てて電話を取った。
レイチェルかアレックスに何かあったのかと思ったからだ。
だが、相手の用件はレイチェルの身元照会だった。それも、聞いたこともないような公立の病院からのものだったのだ。


電話を終えたグラントは、驚きと共に怒りを抑えられなかった。
彼にはレイチェルが再就職先を探していることはおろか、医療現場への復帰を模索していることさえ知らされていなかったからだ。
グエンドリンが亡くなり、名実共にハミルトン家の女主人となったからには、これからはレイチェルが家に入り、新たなミセス・ハミルトンとしての役割を担っていくのだと思い込んでいたのだ。



「何でまた、仕事をしようなんて思ったんだ?それも、わざわざ待遇の悪い公立の病院で。そんなことをしなくても、君には生活をするのに充分なものを与えているつもりだったのだがね」
現場に戻ることについて、グラントが諸手を挙げて了解してくれるとは思っていなかった。
だが、ここまで激しく怒りを露わにされるとも考えてもいなかったレイチェルは、思わず身構えた。

「考えてもみて。もうここに私の仕事はないわ。今までは専任看護婦としての仕事や生活介助、それにお医者様とのパイプ役としての務めがあった。でも、お祖母様がいなくなったこの屋敷に私ができることは何も残っていないの。だったら外に職を求めるしかないでしょう?」
「だが、君にはハミルトン家の当主の妻としての務めがあるだろう」

彼の言う妻の務めとは、昼は同じような境遇の夫人たちとエステやヘアサロンに集い世間話に花を咲かせ、夫のカードで贅沢な買い物を楽しむ。そして夜は煌びやかなドレスや宝石で着飾って、あちらこちらのパーティーに顔を出し、深夜まで騒ぐことを指しているのだろうか。

確かに彼の立場上、社交生活が重要なウエイトを占めることは否定しない。同伴が必要だと言われれば、それに従う心積もりもある。
だが、レイチェルはそれだけで満足できるような性格ではない。
今までは、日々の糧は自らの手で稼いできたという自負もあるし、その思いはこれからも変わらないだろう。幼い頃から労働こそ尊いものだと教えられてきた勤勉な人間に、必要以上に奢侈な生活を強要することは、逆に苦痛をもたらすということが彼には理解できないのだろうか。

「それにアレックスの母親としての役目はどうするんだ?」
「もちろん、今までどおり、ちゃんとやっていくつもりよ」
「どうやって。仕事の片手間にか?」
それまでは穏やかに事を収めようと努めていたレイチェルだったが、グラントのあまりに挑発的な態度と言葉に堪えきれず、ついに気色ばんだ。
「仕事をしながら子供を育てているワーキングマザーは世の中にたくさんいるのよ。もっと時間に追われてる母親だって少なくないわ。私は恵まれていることに、シッターのリンがアレックスについてくれている。
もちろん、必要なときはいつでも手を差し伸べられるように注意を怠るようなことはしません。でもこれからどんどん何でも一人でできるようになってくるのに、いつまでも四六時中母親が側についている必要があるのかしら?それとも私に子供部屋のドアの前に張り付いて、見張っていろとでも言うわけ?」

一息で言いたいことを言い切ったレイチェルが、グラントを睨み付ける。
だが、その視線にも動じることなく、グラントは冷ややかな声で次の一撃を放った。
「そうか、分かった。君がそんなに時間を持て余しているとは思わなかった。では、もう一つ、妻の役目を果たしてもらおうか」
グラントは一度言葉を切ると、わざと彼女と視線を合わせた。
「私の跡継ぎを産むという大事な役目をね」

グラントはレイチェルの前に立つと、彼女の顎をつかんで上向かせる。
「忘れないでもらいたいが、君はそのための『妻』でもあるんだ。ただ単にセックスのパートナーというだけではない」
彼の言葉を聞いたレイチェルが顔を強張らせる。
「ひ、どい。そんな…。私は…私はあなたを愛しているから、あなたとベッドを共にしたのよ」
「そんなことを私に言っても無駄だ。生憎と私はそんな感情は持ち合わせていないのでね」
グラントは口元を僅かに歪めて彼女を見下ろした。
「アレックスも一歳になったことだし、そろそろ次の子供を考えても良い頃だろう。君さえ良ければ、私は今夜から始めてもかまわないくらいだがね」
蒼白となった彼女の表情を見ながら、グラントが耳元で囁いた。

「それこそ、君はもう妊娠しているんじゃないのか?」

その言葉にレイチェルは凍りついた。
今まではグエンの病状が思わしくなく、先が読めなかったこともあって、二人とも積極的に子供を持とうという考えはなかった。何かあった時に身動きが取れないような状況は避けたかったからだ。
ただ、ベッドを共にした時、グラントが一度も避妊しなかったのは紛れもない事実だった。

その場に固まり反応を返そうともしないレイチェルを置いたまま、グラントはドアに向かう。
そして最後に肩越しに彼女に駄目を押した。
「どうしても外で働きたいというのならば、好きにすればいい。だが、もし、アレックスに何かあったりしたら、君は母親としての全ての権利を失うということを、よく考えた上で行動することだ」



一人残された書斎で、レイチェルは呆然と立ち尽くしていた。
頭の中でグラントの言葉が何度もリフレインする。

「跡継ぎを産むための…妻」

覚悟はしていたつもりだった。
彼と身体を重ねるようになって以来、ずっと心に蟠っていたことだ。だが、面と向かって言葉にされると、思っていた以上に鋭く心に突き刺さった。
レイチェルは彼を愛しているから彼とベッドを共にした。しかしグラントにとって、彼女は性欲を満たし、尚且つその副産物として子どもも産めるという、便利な存在でしかなかったのだ。

二人で過ごす夜の熱情に、そして彼が時折見せてくれる優しい気遣いに、もしや彼も自分を愛してくれているのではないかという淡い期待を抱いていた。
だが、所詮彼女は契約上の妻、アレックスを手に入れるために仕方なく背負い込んだお荷物に過ぎなかったということか。

「まったく、お笑い種ね」
これが結婚した当初ならば、然もありなんと敵意を燃やし、彼に立ち向かうこともできただろう。だが、彼を愛してしまった今となっては、愛情と失望に雁字搦めにされてしまい、身動きが取れなかった。


『どうかあの子を愛してやって』
グエンが遺した言葉がレイチェルに重く圧し掛かる。

「私には…もう、どうしてよいのか分かりません。彼を深く想えば、いつかきっと彼も私を愛してくれるようになる、そう思って今までずっと耐えてきました。
でも、グラントを心から愛しても、彼はそれを受け入れてはくれません。
お祖母様、私はどこか、何か間違っていたのでしょうか?」

虚空に向かって問いかけるレイチェルの声が、掠れて途切れる。
だが、夜のしじまは冷たい静寂に満ち、答えは何も聞こえてはこなかった。




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