翌朝、病院に駆けつけたレイチェルの目に飛び込んできたのは、ベッドの上でむずがるアレックスをあやすグラントの姿だった。 点滴針の脱落を防ぐ添え板が嫌なのか、しきりに足を動かしてもがいている。 時折グラントに向かって金切り声で何か話しかけている様子は、昨日の夕方見た時よりもはるかに意識がはっきりしているし、動きもしっかりしているようだった。 「ああ、神様、ありがとうございます」 ぐったりと動かない小さな体を抱えてここに来てから、ずっと聞きたいと願った声が耳に届いた瞬間、レイチェルは感謝の言葉を呟いた。 グラントは約束どおり昨夜のうちに再び病院に戻り、アレックスを看ていてくれたようだ。 「アレックス」 レイチェルがベッドの側に近づくと、アレックスは彼女に抱いてもらおうと両手を突き出した。 アレックスは見慣れない部屋に怯え、暴れては看護師やグラントを手こずらせていた。点滴の針が何度も腕から抜けるので、ついに位置を足に変えられてしまったほどだ。 「今朝方からずっとこんな具合で、参ったよ」 レイチェルに抱き取られ、甘えるアレックスの頭を撫でてから、グラントが大きく伸びをした。彼の目は見るからに寝不足で、赤く充血している。それでも元気を取り戻したアレックスを見守る眼差しは優しかった。 そんな彼の姿を目にしたレイチェルは、自分の気持ちが抑えられなくなるのを感じていた。 こんな風に、時折無骨な優しさを示されると堪らなく嬉しくなる。 反対に、何日も顔を見せなかったり、忙しくて声をかけてくれない時は、寂しさと共に腹立たしさも感じしまう。 どんなにグラントのことを締め出そうとしても、彼の一挙一動が気になって仕方がない。 それが何なのか、考えるのが恐くて、敢えて今までその思いに蓋をしていたのだ。 だが、ついにレイチェルは自分の気持ちを認めた。 そう、彼女は「夫」に恋をしてしまった。 あんなに激しく憎んでいた男に、今更ながら好意を抱いてしまったのである。 一度は妹の仇とまで恨んだ相手に、恋焦がれる己の何と身勝手なことか。復讐が聞いて呆れると自嘲しそうになる。 だから、提案を受けたとき、それを受け入れて肉体的に彼と結ばれたいという誘惑があった一方で、そんなことを思い願う自分を浅ましく思ってしまったのだ。 それに加えて、グラントの本心が分からないことも、彼女が動き出せない理由だった。 彼は簡単に自分の気持ちを他人に曝け出すような人ではない。だから、彼がレイチェルのことをどう思っているのかを読み取ることができず、それがジレンマになっていた。 もし、彼が「妻だから」という理由ではなく、彼女自身を求めてくれたのならば、レイチェルは迷わずグラントの求めに応じるだろう。 義務や役目といったしがらみとは関係なく、彼女を愛しているから、人生を共に過ごしたいと、ただそう思ってくれたら…。 だが、今の状況では、その言葉を彼の口から聞くことは叶わぬ夢だろう。 彼に愛されることは、決して口にできない、心の中の願いでしかないのだから。 入院から2週間ほどで、アレックスは無事退院することができた。 後遺症については、医師はあまり心配はいらないと考えているようだ。レイチェルが見たところでも、アレックスは入院前と変わりないように感じる。まだ楽観はできないが、影響が出ない可能性が大きいことは、ありがたいことだった。 「こらっ、アレックス。待ちなさい!」 すでに病院で退屈していたアレックスは、屋敷に戻るや室内や廊下を動き回る。まだしっかり歩けず、這った方が早いくらいだが、それでもリンに捕まりベッドに連れ戻されるまで、あちこちを逃げ回った。 アレックスの入院で、一時的に控えていたクリスマスの準備も再開された。 日常が戻った屋敷は安堵と喜びに溢れ、使用人たちも皆、一様に晴れやかな顔をしていた。 「お帰りなさい。今日は早かったのね」 「アレックスの様子は?」 「元気過ぎて困るくらいよ。はしゃぎすぎたみたいで、疲れて寝てしまったわ」 帰る早々、子供部屋に来たグラントは、ベッドですやすやと眠るアレックスをのぞきこんだ。血色が良くなり、ふっくらとした頬が戻ってきたアレックスの様子に、グラントは目を細めた。 「これでやっと一安心だな」 穏やかな表情をしたレイチェルが、にっこりと笑って頷いた。 その後、レイチェルとグラントは、結婚式以来始めて自宅の同じテーブルで夕食をとった。 二人の労をねぎらうかのように、テーブルにはいつもは祝いの席でしか開けられない秘蔵のシャンパンが用意され、豪華なメニューが並んでいた。 「あの時が嘘のようだな。子供というのは回復が早い」 「ええ、本当に。これでこのまま何事もなく済んでくれれば、いいんだけど」 表面的には寛いだ雰囲気の中、二人はグラスを重ねながら互いの出方を覗っていた。 あの夜以来、ゆっくり話す機会はなかったが、顔を合わせる度にぴりぴりした緊張感が二人の間に漂うのを感じていた。 「私は部屋に引き上げることにしよう」 先に口火を切ったのはグラントだった。 席を立ちドアの側まで歩み寄ると、急に立ち止まり、彼女の方に振り向いた。 「もし、君の気持ちが変わっていないのならば…待っている」 そして、彼の背後で静にドアが閉じられた。 一人残されたレイチェルは、しばらくその場を動けなかった。 ついにこの時が来たと思う反面、まだ躊躇う気持ちも心のどこかにあるせいだ。 だが、日増しに強くなるグラントへの想いは、もう自分ではどうすることもできなくなっていた。 『グラント、あなたを愛しているわ』 レイチェルは、心の中で彼に囁く。 しかし、それを口にすることはできなかった。 HOME |