マンションについた時、レイチェルは疲労困憊で一人では歩けない状態になっていた。 すでに抵抗する気力もなく、彼女は黙ってグラントに抱えられてエレベーターに乗り、室内へと入った。 急だったので、客用寝室の用意ができておらず、レイチェルは以前にも休んだことのある主寝室のベッドの上に下ろされた。 結婚式の夜、この部屋を飾っていた物はすべて片付けられていた。 室内は元のシンプルな装飾に戻され、今では僅かにカーテンとクッションがあの時の名残を留めているだけだ。 「このまま少し休むんだ。何かあったらすぐに連絡を入れるように言ってあるから、心配しなくていい」 背中に枕をあてがい、レイチェルを楽な姿勢で座らせると、毛布を引き上げた。枕元には病院で処方された安定剤とコップに入った水が用意されている。 「私はこのまま病院に戻る。代わりにアレックスに付き添うから安心して眠りなさい。今夜はここにメイドを泊まり込ませているから、何か必要なものがあれば伝えればいい」 ベッドの端に腰を下ろし、頬を撫でると、ぼんやりと空を見つめていたレイチェルが身体を震わせる。 「グラント」 「何だ?」 「眠れない…眠れないの」 レイチェルが、彼に虚ろな眼差しを向ける。 「恐くて眠れないのよ。もし、もしも私が眠っている間にアレックスに何かあったらと思うと、恐ろしくて…」 「何も心配することはない。あの子はもう大丈夫だ」 「でも、もし何かあったら、私は自分が許せない。私は母親失格よ。 私がもっとしっかり面倒を見ていればこんなことにはならなかった。あの時すぐにお医者さんに行っていたら、こんなことには…」 「レイチェル、何を言い出すんだ!」 グラントの声が大きくなる。 「私のせいだわ」 両手に顔を埋め、レイチェルがすすり泣く。 「違う」 「でも…」 「違うと言っているだろう」 グラントは語気荒く言うと、彼女の顔を覆っていた両手を引き剥がした。 「あの時は、誰もこんな状況を考えつかなかった。君も、リンも、私も、屋敷の者たちも。誰一人予測できなかったんだ」 「でも、私は看護師よ。こうなる可能性もあることは、頭に入れておいて当然だったのに」 覆いを失った後も、レイチェルは涙を流し続けていた。その打ちひしがれた表情に、グラントは思わず彼女の肩を抱き寄せた。 「もう自分を責めるのは止めろ。アレックスよりも先に君の方が参ってしまう。さあ、何も考えずに眠るんだ」 彼は、顔にかかったレイチェルの乱れた金色の髪を指で掬い上げると、後ろに撫で付けた。 グラントにもたれかかった彼女の頭は、ちょうど彼の首と肩の間のくぼみにおさまっている。その心地よさに、レイチェルは暫し目を閉じた。 「グラント、お願いがあるの」 髪を梳く手を止めて、グラントが彼女の顔をのぞきこんだ。ぱっと見開いたレイチェルの深い緑色の瞳が、彼の薄い青灰色の瞳を見上げる。 「少しの間でいいから、ここに一緒にいて。眠るまで、眠れるまででいいから…私を抱いていて…」 その言葉に性的な意味合いが含まれないことはグラントにも分かっていた。 だが、それでも彼の体は反応してしまう。こんな微妙な時にそういったことを考えてしまうのは紳士としてあるまじき行為と思う反面、レイチェルが垣間見せたか弱さは、彼の征服欲を刺激した。 この状況で、目の前にある身体の魅力に抗うのは、彼の自制心を持ってしてもかなり辛いことだ。 「それは…あまりよい考えではないと思うのだが」 グラントは小さく咳払いをすると、彼女から目を逸らした。 「どうして?」 「正直に言って今の私は、君とここに…ベッドにいて、何もしないで自分を抑える自信が無い」 レイチェルが虚ろな表情で彼を見つめている。 「いいわ」 「レイチェル?」 「私を抱いても」 自分の着ているブラウスのボタンに指を掛けた彼女は、乱暴にそれを外しだす。 「何をする気だ?」 「抱いてって言っているでしょう?」 ボタンが全て外れたブラウスからは下着と胸のふくらみがのぞいている。もうこれ以上は我慢が利かない。 「レイチェル、止めないか」 片手で彼女の手を押さえこむと、彼はもう片方の手で肌蹴たブラウスの前をかき合わせた。 「どうして止めるの?私はあなたに抱かれてもいいと言っているのよ。こんな身体でも、抱きたいんでしょう?だったら…」 見ると、彼女の唇が小さく切れて、血が滲んでいた。この数日の疲れが、荒れた唇や血の気のない肌に容赦なく現れている。 それでも、なりふり構わず必死に看病を続ける姿を見てきた彼には、レイチェルが美しく、気高く思えた。 そんな彼女に自暴自棄な言葉は相応しくない。 「いい加減にしろ」 グラントが怒りで目を凄める。 「投げやりになって勢いだけで身体を投げ出すなんて。いつもの毅然とした君は…アレックスの母親である君はどこに行ったんだ?大体、こんな状況で君を抱くことは、私の良心が許さない」 レイチェルは俯いて肩を震わせる。 「……なの」 「何だって?」 「怖い…怖いのよ。一人になるのがたまらなく恐ろしい。誰も側にいなくなるのが死ぬほど恐ろしいの」 「恐ろしい?」 「だって、みんな私を置いて逝ってしまうのよ。アレックスだって…」 「馬鹿なことを言うんじゃない。アレックスはちゃんと生きているんだ」 「でも…」 「必要とあらば、アメリカ中の名医を集めて来てもいい。大丈夫だ。あの子はきっと回復する。どんな手段を使っても私がそうさせてみせる」 決然とした言葉に、レイチェルが弾かれたように顔を上げる。 「グラント…」彼の名を呟く唇が震えていた。 グラントは迷わずその唇を奪った。 「君を抱きたいと思ったのは本当だ。だが、今はその時ではない。もしさっき言ったことが本心ならば、屋敷に戻ったら…アレックスが元気になって帰ってきたら、その時にもう一度その言葉を聞かせてくれ。それまで私は待つ」 「……」 返す言葉が見つけられないレイチェルが黙り込んでしまう。 「もう休みなさい。それで気が済むなら、私は君が眠るまでここにいる」 彼が側にあったグラスと錠剤を差し出した。 「これを飲んで」 レイチェルはそれが安定剤だと気付いた。 「でも、あまり深く眠ってしまうと…」 「何もない。あるはずがない。さあ」 それでも躊躇する彼女を見たグラントは、徐にレイチェルを抱き寄せた。 「グラント、何を…」 問う間もなく、グラントはグラスに口を付けると、そのままレイチェルの唇を覆う。その寸前、彼の指で小さな粒が口に中に押し込まれたのに気づいた時には、すでに水と共に喉を下っていた。 「ほら、目を閉じて」 彼の体温に包まれて、軽く揺すられるうちに、レイチェルの瞼が重くなっていく。そして、小さな吐息を漏らすと、そのままことりと眠りに落ちた。 深く寝入ったのを確認してからレイチェルをベッドに横たえた後、グラントは捩れた毛布を直しながら、溜息をついた。 正直なところ、あの状態で彼女の誘いを断れたのは奇跡に近い。 もしも、頭の隅にアレックスの病状のことがなければ、その場の雰囲気に流されていたかもしれなかった。 だが、こんな状況で彼女を抱いたとしても、彼には納得できなかっただろう。精神的にダメージを受けて、自分を見失っている人の弱みにつけこむようなことはしたくない。 彼女が自らの意思で彼に身を任せたのでなければ、意味がないのだ。 「君は母親失格なんかじゃない。立派に、アレックスの母親だ」 グラントはそう囁き、身を屈めてレイチェルの額に口付けを落すと、そっと寝室を後にした。 HOME |