アレックスの様子がおかしい。 夜になってリンから知らせを受けたレイチェルは、グエンのことをメイドに任せると急いで子供部屋に向かった。 その日、朝から機嫌が悪かったアレックスは、夕方になると軽い咳を出し始め、発熱した。 すでに往診を頼むには遅い時間だったし、昼間にグエンが軽い発作を起こした後だったので、夜間外来にいくために外出する決断が出来なかった。 38度に届くかどうかという微妙な体温に、念のために電話をした医師からは以前に処方された手持ちの風邪薬と解熱剤を使ってもよいと指示をされた。 翌日に病院を受診するつもりで、応急的にレイチェルはそれらをアレックスに与えたのだ。 ベビーベッドに横たわるアレックスは、手足を投げ出してぐったりとしていた。 熱は一時的に下がったものの、意識が混濁しているようで、突然泣き出したかと思えばそのままくたりとしてしまうし、声をかけても反応がない。 「まさか…」 看護師をしていたレイチェルは、以前に病院でこれと同じ症状を見たことがあった。 「お願い、病院に行くからすぐに車を回して!それから、誰かグラントに知らせを…」 レイチェルは側にあった毛布を掴むと、アレックスを抱き上げて玄関へと走った。 「早く、早く車の用意を!」 レイチェルが恐れていたのはインフルエンザ脳症だった。 空気が乾燥していた上に12月に入ってから急激に冷え込んだせいか、巷ではインフルエンザが流行り始めていた。 屋敷の使用人も何人かが罹患し、休みを取らせているのは知っていた。レイチェルも体力の落ちたグエンにうつさないように、と事前にワクチンを打っている。 だが、アレックスはちょうど風邪気味で、ワクチンを接種できなかったのだ。 病院に着くとすぐに小児科に案内される。 グラントからの連絡で、すでに小児科医が待機していた。 「ああ、お願い。アレックス無事でいて…」 廊下の長いすに座り、一人診察の終わりを待つレイチェルは、震えが止まらなかった。 看護師に抱えられて処置室に入った時、すでにアレックスは意識がなかった。 幼児は大人に比べて体力がない。インフルエンザに罹るだけでも体にかかる負担は大きいのに、それに脳症を併発してしまったら、命の保証はない。 もし、仮に助かったとしても、後々まで脳に障害が残る可能性だってあるのだ。 レイチェルは自分を責めた。 あの時、すぐに夜間外来に駆け込めばよかった。 安易に解熱剤を与えてしまったばかりに、こんなことになってしまったなんて。 自分が看護師であるが故に、薬の恐さは知っているつもりだった。いくらグエンのことで手一杯だったとしても、アレックスのことにはもっと慎重になるべきだったのに。 「レイチェル」 グラントに呼ばれ、始めて彼が側に来ていたことに気付く。 「グラント、どうしよう。どうしたらいいの?」 半狂乱で彼にしがみつく彼女を宥めるようにグラントはレイチェルを抱きしめた。 「大丈夫だ。今、医師がちゃんと診察をしている。もしかしたら、君が考えているようなことではないかもしれないだろう?落ち着きなさい。今は待つしかないんだ」 彼も慌てて駆けつけたのだろう。髪は風で乱れ、コートも持っていなかった。 それでもグラントが側にいてくれるだけで、レイチェルは平静が保てた。 二人は冷え切った廊下の椅子に、身を寄せ合い座っていた。 ひたすらアレックスの無事を祈りながら。 アレックスはそのまま入院措置がとられた。 やはり、インフルエンザ脳症の「疑い」があったためだ。 完全看護の病院だったが、特別室に入ったアレックスにはレイチェルが付き添っていた。 アレックスは体調の悪さを表すようにぐずぐずと泣き続けたかと思うと、時折意識が混濁した状態になる。どんな小さな症状の変化も見逃すまいとするレイチェルは、ほとんど眠れないまま付き添いを続けた。途中、グラントに何度も休むよう言われたが、彼女は聞き入れようとしなかった。 翌日になると、仕事を休めないグラントは病院からそのまま出勤して行き、シッターのリンが無理やりに交代を買って出たが、レイチェルは、屋敷に戻り荷物を作って着替えを済ませると、休むことなくすぐに病室に戻ってきてしまったのだ。 そして入院から3日目の夕方。 ついにレイチェルが倒れた。 病院から知らせを受けたグラントは、すぐに屋敷で待機しているリンに病室に行くよう指示をすると、自分も病院へと急いだ。 彼自身、昨夜はアレックスの病室に簡易ベッドを持ち込んで、泊まり込んだ。 ゆっくり休むことはできないが、アレックスの病状はもちろんのこと、横になることもしないで付き添っているレイチェルのことが心配だったのだ。 「グラント…お仕事中なのにごめんなさい」 彼が病室に着いた時、レイチェルは付き添い用のソファーベッドで点滴を受けていた。 顔色が悪く、一見しただけで睡眠不足が分かるほど瞼が腫れている。 「だから、あれほど休まないといけないと言っただろう」 目の下にできた隈を指でなぞられると、レイチェルはいたたまれずに目を閉じた。 眠りたくても眠れない。 ベッドにもたれたまま少しうとうとしても、アレックスが身じろぐたびに目が覚めてしまうのだ。 昨夜、夜中にぐずったアレックスを寝付かせた時、ふと振り返った部屋の隅に、簡易ベッドで横たわるグラントが目に入った。 アレックと同じ髪色をした、雰囲気のよく似た寝顔。 この子がグラントのような大人になるまで生きられるのだろうか。そう思うと涙が止まらなかった。 レイチェルは、幼い頃に両親を亡くして以来、次々に亡くなった肉親を自らが弔ってきた。 両親、祖父、そして、妹。 アレックスが唯一残された、血の繋がった家族だ。 私はこの子まで失ってしまうのだろうか。 そんなことを考え始めると、恐ろしくて眠ることさえできなくなってしまうのだ。 点滴が終わると、グラントはアレックスのことをリンに任せて、自分はレイチェルを無理やり車に乗せた。 マンションで彼女を休ませるためだ。 屋敷に戻るよりもそちらの方がこの病院からも近い、という判断からだった。 車窓からは、通りに並ぶ店や街路樹を飾る煌びやかなイルミネーションが見える。 あと半月もすると、クリスマスだ。 アレックスは、大きなツリーを見てあんなに喜んでいたのに…。 「何も…」 「ん?」 祈るように手を握り合わせて、口元に押し付けたレイチェルの呟きが、グラントの耳に届く。 「クリスマスのプレゼントは何もいらない。だから、お願い。アレックスを助けて…」 レイチェルは、今にも脆く崩れてしまいそうな風情だ。体力的にも精神的にも、限界に近いのだろう。 「医者は最善を尽くしているんだ。あとは、回復を待つしかないだろう?今からそんなことでは、アレックスが戻ってきた時に充分な世話ができないぞ」 今朝の時点で病状はすでに峠を越え、生死に関る事態ではなくなっていた。 ただ、今の段階では後遺症までは確認できない。このまま完全に回復する可能性もあるが、これから将来どのような形でそれが現れるかは明言できないと言われたのだ。 「どんな形であれ、アレックスが生きていることが一番大事なことだ。それだけでも充分な贈り物だろう?」 レイチェルは抱き寄せられた胸に顔を埋めて頷いた。力の抜けた彼女の肩が震え、嗚咽が漏れてくる。 「ああ、アレックス…」 車の後部座席で、レイチェルはグラントに縋り付いて泣いた。 それは、気丈な彼女が彼に見せた、初めての涙だった。 HOME |