結婚式から半月が経った。 レイチェルは、以前と変わりない日常を送っている。 違うところと言えば、周囲の使用人たちから「若奥様」と呼ばれるようになったこと、それにグエンドリンを「お祖母様」と呼ぶようになったことくらいだろうか。 それは、結婚して数日後のこと。 いつものように朝、検温と投薬を済ませ、使用人の一人と一緒にベッドメイキングをしている時だった。 「奥様、こちらはこれでよろしいですか?」 メイドの年配の女性が、グエンに何かを尋ねている。 レイチェルは気にも留めずに、ベッドの側に屈みこんだまま、自分の手元のシーツをマットレスにたくし込んでいた。 「レイチェル?」 グエンに呼ばれて目を上げると、答えを求める視線がこちらに向けられていた。 見ると、メイドも一緒にこちらをうかがっている。 その時になって、初めてレイチェルは「奥様」がグエンではなく、自分への呼びかけであることに気がついた。 「ごめんなさい、なかなか慣れなくて…」 申し訳なさそうに謝る彼女に、グエンが何事か思案している。 「何か『奥様』とは他の呼び方を考えた方が良いわね。皆で相談してみてちょうだい」 屋敷の中では古参の執事は、いつもグエンドリンを「大奥様」と呼んでいる。それはグラントの母がまだこの家にいたときに、彼女とグエンを呼び分けるためにそう決めたのだと聞かされていた。 グエンが「大奥様」、グラントの母親は「奥様」。 グラントの母親と同じではレイチェルが嫌がるだろうと、皆が考えだした呼び方が「若奥様」 だった。 この屋敷に来てからずっと、グエンのことを「ミセス・ハミルトン」と呼んでいたレイチェルだったが、彼女自身が「ミセス・ハミルトン」となってしまったので、それも変えざるを得なくなった。 グエンは名前で呼んで欲しいようだったが、元は使用人と雇用主の関係。 なかなか呼び捨てにはし辛く、グラントに倣って「お祖母様」と呼ぶことに決めたのだった。 結婚してからも、以前同様に専属看護師としてグエンドリンの看護を続けているレイチェルだが、グエンの病状は日を追うごとに悪くなっていった。 投薬量が一段と増え、今や栄養も口からより点滴の輸液から摂る方が多いほどだ。 医師によると、すでに彼女の病状は末期に近く、多分この冬は越せないだろうと言われている。一時の目を見張る回復ぶりは、奇跡に近かったのだと思われた。 グラントとの結婚生活も日常と同様に、何も進展がないまま過ぎている。 表向き、寝室こそ共用となったものの、今でも彼女はアレックスの部屋の続きにある以前の寝室を使っており、主寝室で寝ることはほとんどない。 彼は彼で、週のうち半分は屋敷には帰って来ず、帰宅しても、勝手に自室で休んでいる様子だ。 使用人たちは薄々その不自然さに気付いているようだが、誰も何も言おうとはしない。 特にここのところ、グエンの調子が悪くて、発作が起きると真夜中でも呼ばれて部屋を飛び出していくレイチェルが、グラントの眠りを妨げないように気を使っているのだという説明で、皆が一応納得しているようだった。 彼女の中で、グラントの提案に対する応えは未だ出ていない。 結婚を承諾した時は、こんなに早くグエンドリンの死期が近づいてくるとは思っていなかった。いや、考えないようにしていたと言った方が正しいのかもしれない。 グエンの看護をしながら、アレックスをこの家で育てる。 それをベースに考えて、生活を組み立てた上での契約結婚になるはずだったのだ。 ところが、礎となる存在のグエンは日増しに病状を悪化させ、死が現実味を増している。その上、形骸であったはずの結婚が、思わぬ方向に動いてしまった。 彼は普通の夫婦生活を考えている。それはありきたりな日々のことだけではなく、ベッドの中でもレイチェルに彼の妻の役目を果たすことを望んでいるのだ。 確かにレイチェルだって自分の子供が欲しい。 アレックスも我が子同然に愛しているが、いつか自分の胎内で育んだ子供も、産み育ててみたいという思いは強かった。 グラント自身に対しても、最初に感じていたような嫌悪感は既になく、今では、誠実だが感情を表すことが苦手な、不器用な一人の男性として彼を見るようになった。 元々、彼自身は傍目には魅力的な人なのだ。ただ、出会った経緯や、その後のそれぞれの兄弟姉妹の死、そしてアレックスの親権をめぐる対立が、この確執を決定的なものにしてしまったのだ。 過去に自分が取った行動が間違っていたとは思いたくない。確かにグラントはマデリンとジェフリーを引き離そうとしたのだから。 しかし、もしもグエンが病気ではなく、ジェフリーが何もかもを捨てる覚悟でマデリンの元に駆けつけていたとしたら、今ある結果も変わっていたかもしれない。最後の最後でマデリンを選び取れなかったことは、ジェフリー自身の弱さだったのだろう。 過ぎ去ったことをあれこれ考えても仕方がないことだが、今になって思えば、あの時はあまりにも感情的になり過ぎていた。本来ならば、ジェフリーが負うべきだった責めまですべてグラントに投げつけてしまったことが本当に正しかったのか。 レイチェルにはその判断がつかなかった。 だが、グラントは弟の身代わりとして、彼女の怒りや恨み、そして憎しみまで全部を被り、それに甘んじることに耐えたのだ。まるで、自分がそうすることで、責任を果たそうとするかのように。彼女の持って行き場のない憤りの言葉まで、すべて彼がその身で受け止めた。 あの時グラントがそうしてくれなかったら、彼女は今でも妹の死から立ち直れていなかったかもしれない。 マデリンを失ってからアレックスと二人、喪失感に飲み込まれないように、がむしゃらに生きていた。生活に追われ、それでも何とか悲しみから抜け出そうと、ひたすらもがき続けていた日々。 すべての感情を押し殺し、周囲の言葉を何一つ聞き入れられず、アレックスのこと以外は何も目に入らなくなっていた自分の異常さに、今さらながらに気付かされる。 そんな彼女の目を覚まさせたのは、グラントだった。 もちろん彼も、最初からこうなると思っていたわけではないだろう。 むしろ自分は、アレックスに引っ付いて離れない、始末に負えない邪魔者だったに違いない。だから何度もお金で厄介払いをしようとしたのだ。だが、結果として、それが彼女の危機感を煽り、怒りに火をつけることになった。 感情を剥き出しにすることで、レイチェルは自分を取り戻すことができた。グラントの傲慢さに焚きつけられることで、意地になって再び陽の当たる場所に這い出してきたのだとさえ思えるようになった。 多分、相手がグラントでなければ自分は変われなかった。 彼でなければ…。 空気が一層冷たく感じられるようになった11月下旬。 クリスマスを一月後に控え、レイチェルたちは、初めてクリスマスを迎えるアレックスのために、屋敷にツリーを運び込んだ。 大の大人が三人がかりでやっと持ち上げられるほどの大きなツリーに、屋敷の者が総出で色とりどりのモールやさまざまな形のオーナメントを飾りつけた。 それに加えてグエンの提案で、玄関にリースを掛け、エントランスにクリスマス・カラーのタペストリーを飾ったり、外の庭木にもライトを這わせて、デコレーションを施した。 重々しかった屋敷の見栄えは一変して、クリスマスの雰囲気が漂う華やかなものになった。 「こんなに賑やかなクリスマスは久しぶりね」 その様子を見たグエンドリンも、しばし病を忘れたように顔を綻ばせる。 ここ数年、グエンは毎年クリスマスはどこかのパーティーに招かれるか、海外にいることが多かったのだそうだ。 多忙なグラントや誘いの多かったジェフリーが屋敷に戻ってくることはなく、ここではもう何年もクリスマスを祝うことをしていなかったのだと使用人から聞かされた。グエンは言わなかったが、多分彼女もクリスマスを一人で過ごすのが嫌だったのだろう。 初めて見るツリーやぴかぴか光る電球に、アレックスは大喜びだ。 ツリーに這い寄り、興味津々でしきりに掛けてあるモールを引っ張ろうとして、使用人たちを慌てさせていた。 「これは凄いな」 その夜遅く、数日ぶりに屋敷に帰ってきたグラントも、デコレーションされたツリーを見て思わず笑みを浮かべた。 「アレックスのために、皆がしてくれたのよ」 明かりを落とした広間で、ツリーに灯を点したレイチェルは、点滅する電飾に見入るグラントを見つめた。 「今年はここでお祝いしましょう。ケーキを焼いて、ターキーを用意して…」 「早速何かプレゼントを考えないといけないな。この木の根元を包みで一杯にしないと」 目を細め、楽しげにしているグラントの表情は、少年のようだ。そんな彼を見て、レイチェルは胸が一杯になった。 年が離れていた妹のマデリンは幼すぎてあまり記憶に残っていなかったようだが、レイチェルは、両親が亡くなる前のことをよく覚えていた。 クリスマスが近づくと、母親はいつも何か手作りのものをバザーに出していた。料理やお菓子、それに着られなくなった洋服や靴をきれいに洗い整えて、それらも寄付することにしていた。 両親は決して豊かな生活をしていたわけではないが、それでも恵まれない人たちに僅かばかりだが施しをして、自分たちの幸せを分かち合うことを忘れなかった。 クリスマスイブは皆で賑やかに食事をして、その後で一家で教会に行く。ミサのあと、牧師の奥さんが出してくれた紅茶の温かさとクリスマスのクッキーの味は今でも忘れられない思い出だ。 両親が亡くなった後はレイチェルがその役目を引き受けた。 祖父の家でも、そして祖父が亡くなり二人きりになってからも、できるだけ温かなお祝いができるよう心を砕いた。生活は以前よりももっと苦しくなったが、それでも感謝と施しの気持ちを忘れたことはない。それが彼女にとってのクリスマスだ。 だが、きっとグラントは、家族で祝う温かなクリスマスを過ごしたことがないのだろう。 グエンから聞かされた話では、グラントの父親が健在だった頃は、この家でも毎年盛大なクリスマス・パーティーが開かれていたそうだ。 もちろん、グラントたちも参加はしたが、多くのゲストの相手に忙しい大人たちは子供に構うような時間はなかった。 少しでも騒ごうものならば、早々にベッドに追い立てられるのが関の山だったのだ。 クリスマスの夜に、一人寂しくベッドに入る子供を思い浮かべたレイチェルは、思わず涙ぐんだ。自分のように「お休み」を言って、両親に抱きしめてもらうことすらできなかった少年の姿をした彼が、あまりにも不憫だった。 「今年は家族で賑やかにお祝いしましょうね」 「ああ、そうだな」 涙が零れないように伏せた目の端に、グラントが小さく頷いたのが見えた。 HOME |