「子供って…どういう意味?」 「文字通り『私と君の子供』ということだ」 確かに婚前契約書にその条項はなかった。 アレックスのこと以外、将来に向けての決め事は、二人とも離婚するときの条件しか考えていなかったからだ。 「私に体外受精でも受けろというの?」 「その必要はないだろう。男女が普通にベッドを共にすれば、何か支障がない限り子供は持てるはずだ。それに、君も健康な女性ならば、性的な欲求があって当然だと思うが」 レイチェルは信じられないといった顔で彼を見つめた。 まるで新たな取引の一つを提示するかのように、淡々とセックスに関する発言をする彼の言葉に、ショックを隠しきれない。 確かに彼女にとっても、セックスは快楽を求める行為であることは否定しない。 だが、それはあくまでも恋愛感情の上に成り立つものであって、その延長線上にある子供の存在は、愛し合う二人が時間をかけて育んだ愛と信頼の結晶であるべきだと彼女は思っている。 「それは…暗に私にあなたのベッドの相手をしろと仄めかしているの?」 それを聞いたグラントは不快感を露わにした。 「その言い方は気に入らないな。妻に娼婦の代わりをさせるつもりはない」 「でも、今のあなたと私の関係では、そう聞こえても仕方がないでしょう?」 契約上の夫婦はビジネス・パートナーと同じ。 そう考えてこの結婚に同意した。屈辱的だったが、離婚条件が盛り込まれた婚前契約書にも黙ってサインをした。 この上まだ自分を辱めるような条件を付け加えることだけは、どうしてもしたくない。 「夫婦の義務だ、とか何とか言いながらあなたに抱かれて、それが仕事のように子供を身ごもるなんて、女としては屈辱以外の何物でもないわ。私は絶対に嫌」 「だが、子供はいつも愛情豊かな両親の下に生まれてくるとは限らない。世の中には義務で産み落とされる子も、望まれずに誕生する子供もいる」 グラントは、苦々しい顔で吐き捨てるように呟いた。 レイチェルは、それがグラントとジェフリーのことをほのめかしているのだと気付いた。彼は、自分たちはそういう状況下で生まれたと思っているのだ。 彼女は心の中でグラントの両親に呪いの言葉を吐いた。一体彼らはどんなことをしてグラントたち兄弟の幼い心をここまで傷つけたのか。 今でもそれを払拭できないでいる、彼に同情の気持ちすら湧いてくる。 だが、同時に、両親と同じことを自らも行うことに何の躊躇も見せない彼に対して、苛立ちをも感じていた。 「でも、あなたは結婚さえする気がなかったのでしょう。だったら自分の子供を持つつもりなんて、さらさら無かったのではないの?」 グラントは、社会道徳的には厳しい理念を持っている。 彼にしてみれば、近しい身内のアレックスが婚外子として扱われることでさえ、我慢ならないことだったのだ。そんなグラントが、結婚もしないで子供を作ることを考えるとは思えない。 「始めはそうだった。だから、アレックスを自分の後継者として据えることを考えていた」 レイチェルは、息をつめて彼の言葉を待っている。 「だが、状況が変わった。私は再婚して妻を持った。そうなれば、自分の実子を持つことも吝かでないだろう」 事実、アレックスが来るまで、彼が小さな子供に接する機会はほとんどなかった。 他人の子供を見ていても、うるさくて煩わしい存在としか思えなかったのが正直なところだ。 だが、初めて会ったレイチェルのアパートメントで、自分と同じ色の瞳で見上げられた時から何かが変わった。 無垢な心に慕われる誇らしさ。守りたいと思う責任感。 そして、それらをすべて網羅する何か大きな感情が彼を突き動かした。 「それに、将来のことを考えると、できれば兄弟で負担を分け合うようにしたいと思う。誰が跡を継ぐにしても、すべてを一人で背負わなければならないということは、掛かる責任が大きすぎる。そんな思いを…できればあの子にはさせたくはない」 我が身を思い返しているのか、グラントの言葉がそこで途切れた。 レイチェルは、はっとして彼を見つめた。 グラントはアレックスを愛しているということに、自分でも気付いているのだ。だから少しでも、将来あの子の背負う苦悩が小さくなるようにと心を砕いている。 ただ、それを愛情という言葉を持って表現することができないだけなのではないか。 『あの子は愛というものを知らない』 いつか聞いたグエンの言葉を思い出す。 だが、それは間違っている。 グラントは「愛を知らない」のではなく、「愛しているということを伝える術を知らない」のではないだろうか。 それならば、まだ彼女にも彼を救える手立てはあるかもしれない。 だが、そんなレイチェルの思いを打ち砕く、感情のこもらない言葉が、彼の口から零れてくる。 「正式な伴侶を得た以上、私は外にパートナーを作るつもりはないし、気晴らしを求める気もない。そうなれば、必然的に私のベッドの相手は君ということになる。 無論、子供を産めるのも、妻である君しかいないということになるだろう。 この結婚が続く限り、他所で子供を持てないのは君も同じだ。 君は…自分の子供を産みたいとは思わないのか」 彼の言い草は、妻にしてやったのだから、ベッドを温めるのも、子供を産むのもお前がやって当然だ、とでもいうようだった。 もちろん彼女が納得できるわけがない。 確かにアレックスを思う気持ちでは、自分も負けない。これから先、彼に兄弟がいれば良いこともあるに違いない。しかし、それだけではグラントとベッドを共にし、子供をなすに足る理由にはならない。 彼は幼い頃自分が一番欲していた、大事なものを忘れている。 「でも、私は義務や責任で子供を産むつもりはありません。家族となるには、愛情や尊敬、そして信頼の気持ちがなければ嫌です。 あなたは義務としてではなく、心から、家族に…私や子供にありったけの愛情を注ぐことができますか?」 「…… 難しい質問だな」 グラントは目を閉じて考え込んでいたが、暫くすると意を決したように彼女を見た。 「分からない、今はまだ。だが、そうできるよう努力はするつもりだ」 グラントにとって、家族は自分に一番縁遠いものだと思っていた。 幼い頃から両親に愛された記憶はない。 唯一の兄弟だったジェフリーとも離れ離れで暮らしてきた。 若くして最初の結婚をした時も、ファミリーの中に入ってみたいという憧れはあったが、自らが家族を作るという思いは希薄だった。 愛情はなくても充分子供は…家族は持てると思っていた。 自分の両親がそうであったように。 だが、レイチェルの考えはまるで違う。 彼の母親のように、金と引き換えに子供を産み捨てることも、前の妻のように彼を思い通りに動かそうとすることも、そして彼を取巻いていた多くの女性たちのように、贅沢な生活を求めて金持ちの妻の座を狙うことも、彼女の頭にはその欠片さえ存在しない。 彼女にとって重要なのは、家族であり、自分たちが愛情を注がれることだと言う。 レイチェルは他の女性たちが一番求めるものを一切欲しからず、彼が一番与えにくいものを平然と要求してくる。 彼女が唯一欲しいもの、それが「愛情」だと言って憚らないとは。 「このお話、少し考える時間を下さらない?」 レイチェルの戸惑いが伝わってくる。 昨夜までそんな気配すらなかったのだから、急に話を持ち出されて驚くのも無理からぬことだろう。だが、グラントには、近いうちに彼女が同意するであろうという確信のようなものがあった。 それが何であるか、彼自身にもよく分からないのだが。 「あまり待たせないでくれるとありがたいのだがな」 その言葉に、グラントは頷いて書類を封筒に戻す。それを見たレイチェルが、ほっとした表情をしたのを目の端にとらえながら、彼もまたその確信が何であるかを考え続けていた。 HOME |