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復讐は甘美な罠 23


再び目覚めた時、ベッドにいたのはレイチェル一人だった。
今度は先刻の記憶があるので、ここがグラントのマンションであることは分かっている。それだけでも自分がどこにいるのか分からないよりは、気分的にはかなり楽だ。
二日酔いの方は、まだしつこい頭痛が残っていたが、何とか起き上がり、動けるくらいには回復している。レイチェルはベッドから下りると生理的欲求が満たせる場所を探して、裸足のまま近くにあるドアの方に向かって歩いていった。


ドアの向こうはバスルームになっていて、手前に洗面台とトイレ、奥に浴槽とシャワーブースがついている。水音がしていて、奥のブースの方に人影が映っていた。
曇ったガラスの向こうにいるのはグラントに違いないが、声を掛けずにドアを閉めた。
トイレを使っている途中で出てこられては困る。男性の裸を見るのは初めてではないが、それでも相手がグラントだと気まずい思いがするだろう。もちろん自分の方がだ。
グラントは体を晒すことには存外に無頓着なのか、先ほども平気で下着一枚になってベッドに潜り込んできた。
まるで本当の夫婦がするみたいに。

レイチェルは溜息をついた。
彼の考えが分からない。
確かに使用人たちの前では仲睦まじく見せるようにはしていたが、人の目がない時でも、時折グラントは普通の恋人のように振舞うことがあった。
冷たくあしらわれるよりはマシだが、急な態度の変化は彼女に戸惑いを感じさせるに充分だ。

客用の寝室もあると聞いているので、他にもトイレはあるだろう。
レイチェルはもう一つのドアを出ると、廊下を挟んで反対側にあった使われた形跡のない客用の寝室を見つけた。そして急いで部屋続きのバスルームに飛び込んだのだった。



生理的な欲求が満たされると、レイチェルは家の中を探索し始めた。
マンションはかなり広く、豪華な造りになっている。
突き当たりの、玄関から一番近いドアの向こうは、レイチェルが住んでいたアパートメントがすっぽりと入ってしまうくらい大きなリビングだった。
その続きにはダイニングと、料理番組でも始められそうな広いキッチン。
グラントの寝室の隣りは彼の書斎らしく、書籍や高価な音響設備が並んでいる。
主寝室の反対側は予備の寝室が3室並び、それぞれにバスルームが付いていた。

「こんなところに独りで住んでいるなんて、何て贅沢なの」
これだけの広さがあれば、夫婦と子供どころか、3世代でも充分住めそうだ。
ただ、ファミリーが住むには少し無機質過ぎる感じは否めない。家具や調度品など、全体がモノトーンに統一してあり、無駄な装飾まったくない。
温かみのある色や生活感を出す小物を一切排除したようなインテリアは、きっとどこかの有名なデザイナーが大金をかけてコーディネートしたものだろう。


「探検は終わったのか?」
キッチンに戻ったレイチェルを待ち受けていたのは、入れたてのコーヒーの香りとグラントだった。
シャワーを浴びた名残りで、乱れた黒い髪からはまだ水が滴っている。側に行くと、清潔な石鹸の香りともっと他の香り、−多分彼のアフター・シェーブローションの香りだろう−も仄かに漂ってくる。
今までは互いに鍔迫り合いに忙しくて考えないようにしていたが、実際の彼は掛け値なしに魅力的な男性だ。タブロイド誌を賑わせるような軽薄さはないが、彼が付き合う相手の女性に苦労していないことは明白だった。
そういえば、あのバスローブの下に隠された体躯もなかなか素敵だった。
さっき寝室で見た彼の下着姿を思い出し、レイチェルは思わず頬を染める。無駄な肉のない引き締まった体と筋肉質な長い手足。それはまるで、鍛え上げたスポーツ選手か肉体派の男性モデルのようなセクシーさだった。

何を考えているの、私?
そんな自分の妄想に思わずどきりとしたレイチェルは、差し出されたカップを受け取ると、急いで隣のダイニングに逃げ込んだ。
いつもならばたっぷりのミルクを入れるところだが、ミルクを取りに行って再び彼の側に近づくことは避けたかった。今はとにかくカフェインの力を借りなければ平静が保てそうにない。
彼女はこれが命綱とでも言うように、両手でしっかりとカップを掴むと、無理をして熱いコーヒーを飲み干した。


「私もシャワーをお借りしてもいいかしら?」
自分もカップを持ってダイニングに入って来たグラントに、レイチェルが慌てて尋ねる。
「どこのでもご自由に。ただ、君が愛用しているブランドはさっき私が使ったバスルームにしか用意されていないと思うけれどね」
それを聞いたレイチェルが顔を顰める。
ハミルトンの屋敷に移ってから使っているバス用品はほとんどがグエンドリンの気に入っている女性向け高級品だ。レイチェル自身の感覚は至って庶民的で、そこらで安売りをしている一般的なものなら何でもいいくらいなのに。
多分彼は、私のことをブランド好きだとでも思っているのだろう。
そういった一つ一つの事柄にも誤解があるのは、偏に今までどれだけコミュニケーションがとれていなかったのかを知らしめる。
「では、あなたの寝室のバスルームをお借りします。その方がお掃除をする方もあちこち触らなくて済むから都合が良いでしょう?」
「ご自由に。だが、一つ間違いがある。あのバスルームは『私の』ではなくて、『君の』でもある。そうだろう?ミセス・ハミルトン」

忘れかけていた事実を思い出したレイチェルが、不安な表情を浮かべる。
彼と自分は夫婦なのだ。
例えそれが契約上の関係であっても、これからは二人が共有するものはさらに増えていくだろう。まだお互いに知らないことがたくさんあるのに、生活を分け合わなくてはならないことへの戸惑いは大きい。

「シャワーを浴びて一息ついたら、話し合いたいことがあるからここに戻ってきてくれ」
そんな彼女の様子を見ていたグラントは、そう言い残して再びキッチンへと消えた。



シャワーを終えてブースを出たレイチェルは、換えの下着や洋服がないことに気がついた。
昨夜身につけていた下着は、ついいつもの習慣で脱いだ時に手洗いしてしまったのでもう着けられないし、よもや、彼のマンションに女性用下着の買い置きがあるとも思えない。あったらまた、別の意味で問題だ。
それでも念のため、タオルを重ねてある棚を探っていると、引出しから男性物のトランクスが出てきた。
サイズはかなり大きいがニット素材なので、何とかずり落ちずに腰に引っかかってくれそうだ。他人のものを勝手に使うのは気が引けるが、やむなく彼女はその下着を借りることにした。さすがに洋服は備え付けかなかったので、仕方なくバスローブのままだ。その上、いつも着けているブラがないと何だか胸元が心もとないが、この際止むを得ないだろう。


リビングに戻ると、グラントはコーヒーを片手に何か書類を見ていた。
彼が私の夫だなんて…。
自分とお揃いのバスローブを羽織り、いつものように髪をきちんと整えていない彼を改めて見ても、なかなかその実感が湧かない。
結婚したのはつい昨日のことだが、現実のことだったのかと疑いたくなってしまうくらいだ。もしも今、自分が彼のトランクスを穿くような事態に陥っていなければ、まだ信じられないかもしれない。

「ちょうど良かった。君にも見て欲しいものがある」
ドアの前に立っているレイチェルに気がついたグラントが、彼女を手招きした。
テーブルの上に広げられていたのは、先日二人が署名した『契約書』だ。
「この中に記載がされていない条項をいくつか付け加えたいと思うのだが」
彼女の反応を覗いながら、グラントが続ける。
「子供について、どう考えているのか。君は…アレックス以外に子供を持ちたいとは思っていないのか?」

何を突然言い出すのかと、訝しげに彼を見るレイチェルに向かって、グラントの口から信じられない言葉が飛び出した。

「君に、私の子供を産んでもらいたいと考えている。その条件を話し合っておきたいと思ってね」




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