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復讐は甘美な罠 20


婚前契約書はハミルトンの顧問弁護士であるウイリアム・ローランドの立会いで交わされた。
主な内容は、当事者二人の制限項目と、アレックスの親権の確認だ。
レイチェル個人としての、アレックスとの養子縁組は一度解消することとし、新たにグラントとレイチェルが夫妻として養子縁組をし直すことになった。
親権は二人の共同とし、これによってアレックスは正式にハミルトン姓を名乗ることになる。

結婚に関しての取り決めは、まず互いの生活に干渉しないことで意見が一致した。
そして将来、両者の合意があった時は即座にこの結婚を解消できることも条項に盛り込んだ。
また、相手に著しい背信行為があった場合は無条件で離婚を請求できることにもしてある。その際には、アレックスの親権は背信を働いた方が放棄することも取り決めた。

離婚時の財産分与はその時の理由により酌量されることになっている。つまりは、離婚せざるを得ない原因を作った者に、より重いペナルティが課せられるというわけだ。
とは言うものの、レイチェルには財産と呼べるようなものはほとんど何もない。
ただ、アレックスと引き離されるということが、最大の懲らしめとなることは間違いなかった。


書類にサインするよう促され、ペンを握ったレイチェルの手が止まる。
「何か問題でも?」
弁護士が、緊張した面持ちの彼女を見ている。
「どうした?」
先にサインを終えたグラントも動きを止めたレイチェルの方を覗っていた。

本当にこんなことしても良いのだろうか。
この場に及んでも、まだレイチェルは迷っていた。
目の前の文言はあまりにも無機質で事務的なものだった。
この婚前契約書は、離婚をすることを前提にして考えられたものだ。つまり結果を見越した事後策とでもいうのだろうか。
敢えてそれに縋ってまで結婚という手段を取らなければならないことが、彼女には虚しく思えて仕方がなかったのだ。
だが、ここまできてしまった以上、もう後戻りできないことも分かっている。

「いえ、何でも…」
気を取り直してサインをするレイチェルに、他の二人がほっとした様子で顔を見合わせた。


レイチェルが改めて目を落とした書類の先に踊る「背信」の文字。
その中にどういった内容が含まれるのか、契約書上に明確な文言はない。
通常ならば、暴力や金銭トラブルの他、不貞行為などもそれに当てはまるのだろうが、元々この結婚には夫婦生活が存在しないのだから、そこまでは厳しく考えないのかもしれない。
レイチェルは二人に悟られないように小さく溜息をついた。
彼女にとって、元来「結婚」は神に永遠の愛を誓う厳かなものであるはずが、そこに「契約」が介在することで、その神聖さが失われ、貶められてしまうような後ろめたさを持ってしまうことは否めなかった。

「では、今日はこれで。改めて契約書の写しをお二方にお渡しするようにいたします。念のために双方で保管なさってください」
弁護士はそう言うとブリーフケースに書類をしまい、席を立ってグラントと握手を交わす。
ドアまで見送ろうと慌てて立ち上がったレイチェルに、ローランドが気遣いの言葉をかける。
「お二方に申し上げておきましょう。この契約はあくまでも離婚の抑止力とするために取り交わしたものです。『最初に離婚ありき』という意味ではありません。
お二人がこれからどのような家庭を築かれるかは、あなたがたの努力と忍耐にかかっているということを、くれぐれもお忘れにならないように、私からもお願いいたします。
そう、願わくば、この契約書が永遠に表舞台に晒されることがないことをお祈りしています」


ドアの向こうに消えたグラントとローランド弁護士を見送ると、レイチェルはソファーに沈み込んで両手に顔を埋めた。
人生がどんどん制御できない方向に向かって勝手に進んでいく。
自分の未来が自分のものではないと感じることが、たまらなく恐ろしい。

やっぱりこんなことを、してはいけない。

弁護士を追おうと慌ててソファーから立ち上がったレイチェルが、ドアの方へと駆け寄ったとき、客を送って部屋に戻ってきたグラントと鉢合わせた。
「一体どうしたんだ?」
「は、離してください。早く、早く弁護士さんを呼び戻さないと…」
混乱した様子のレイチェルを抱きとめる、グラントの腕に力が入る。
薄っすらと目に涙さえ浮かべている彼女に、いつもの負けん気の強さはない。
彼女も生身の、人間の女なのだということに、彼は今更ながらに気付いたような気がした。
腕の中でもがく彼女を無理やりソファーに押し戻すと、グラントは側にあったキャビネットからグラスとブランデーを取り出した。
「これを飲みなさい」
手渡されたグラスを持つ手が小刻みに震える。
「私、お酒はいただけません。それに、まだこれから仕事もしなければ…」
「とにかく飲むんだ。今にも失神しそうな顔色をしている」
強引にグラスを押し付けられ、無理やり口に含まされた酒が、飲みなれない喉を焼く。
それでも何とか咽ながら飲み下すと、レイチェルは力なくがっくりとうな垂れた。
「こんなの間違っている」
呟くような言葉に、グラントが眉を顰める。
「こんなことをしたって、誰も幸せになんてなれっこない。私も、アレックスも、そして…あなたも」

二人の間に長い沈黙が落ちる。
それを先に破ったのはグラントだった。
「だが、既に賽は投げられた。計画は動き始めているのだよ、レイチェル。もう後戻りはできない。アレックスのためにも、そして私たちの未来のためにも」
「ミスター・ハミルトン…」
「そろそろその呼び方を変えてくれないか。曲りなりにも、私たちは婚約者同士なのだから」
レイチェルは一瞬躊躇したが、それでも言い直した。
「グラント」
グラントは満足げに頷くと、机の抽斗から小さな箱を取り出した。
「これを君に渡しておこう」
中から出てきたのは、眩いばかりの大きな石が煌くリングだった。
「婚約指輪は必要だろう。取っておいてくれたまえ」
グラントはリングを箱から取り出すと、レイチェルの指にはめた。
「でも、こんな高価なものを頂くわけには…」
彼女が手を動かすたびに、ほっそりとした指には大きすぎるダイヤが部屋の明かりに乱反射する。

「もし、将来これが不要になることがあれば、その時には売ればいい。何がしかの金にはなるだろう」
これは慰謝料の前渡し分ということ?
複雑な顔で指輪を見つめるレイチェルにグラントが言い添える。
「そうならないことを願っているがね」
弾かれたように顔を上げたレイチェルを、薄い青灰色の瞳が見つめていた。
何かを心に決めたような、強い眼差しとコントラストをなす口元に浮かんだ微笑。

それは、この結婚を永続的なものにしていきたいということ?
今までの経緯から、グラントがそんなことを考えるとは思えなかった。
一体彼は何を企んでいるのか。
怪訝に思ったが、自分のことで頭が一杯だった彼女は何も聞けなかった。



「おはよう、レイチェル」
「おはようございます」
同じテーブルにつくと、グラントが二人分のコーヒーを注ぎ、レイチェルは各々の皿にサラダやパンを取り合わせる。

契約を交わした日を境に、グラントは毎日屋敷から仕事に通うようになっていた。
朝食は必ずレイチェルと一緒にとり、時にはアレックスも交えて和やかな情景を演出した。
こうしてわざわざ屋敷の使用人たちに、二人の間に特別な感情が芽生えた、と思わせるように仕向けたのだ。通常でも外部との接触が頻繁なわけではないが、それでも彼らの口から洩れた情報が再びマスコミを煽る危険性を防ぐ狙いがあった。
遺産相続人の養母と大富豪の結婚が、実体のない契約結婚であったなどと知れたら、それこそマスコミの格好の餌食だ。口さがない世間の人々にも何を言われるか分からない。

こうして人の目を気にして始めた家族ごっこだったが、皮肉なことに結果としてはグラントとレイチェルの隔たりを埋めるのに役立ったのは確かだ。
以前より会話が増え、互いのことを知る機会になったし、どんな小さなことでも相談して意思の疎通を図ることができるようになったからだ。

二人はたびたび一緒に外出し、幾度かは取材にも応じて、マスコミ向けに婚約中のカップルとしてわざわざ仲の良いところをアピールして見せたりもしたが、実際は今までと何だ変わりのない別々の生活が続いていた。
相変わらずグラントは多忙だったし、レイチェルも冬を迎える頃から一段と体が弱ってきたグエンにつきっきりになっていたためだ。
ただ、取材攻勢がそのままレイチェルたちの婚約報道の方に向いたため、興味本位にアレックスの身辺を探られることがなくなったのは、グラントの目論み通りになったことは確かだった。




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