BACK/ NEXT / INDEX



復讐は甘美な罠 2


「ねぇ、アレックス。あなた、本当に私といて幸せなのかしら?」
レイチェルはサムが用意してくれた軽食をつつきながら、横のゆりかごでまどろむ赤ん坊の寝顔を見下ろした。
少しカールした黒っぽい髪、ぱっちりと開くとその目は薄い青灰色している。自分や妹とはまったく異なった色合いのそれらは、明らかにあの男のものを写し取っている。
だが、鼻筋の通った顔立ちはどことなく妹の雰囲気があった。
「あなたの面倒を見るのは私しかいないように、私にも家族はあなたしかいないのよ。お互いに頑張っていかなきゃね」

ケースワーカーは、定職のない、ティーンエイジャーのシングルマザーとなったマデリンが息子を育てることに最初から懐疑的だった。
伯母であるレイチェルの精神的、経済的援助があればこそ、何とか今までやってきたのだと彼らは思っている。
それゆえに妹の死後、暗にアレックスを養子に出すことを彼女に勧めたのだ。
もちろん、レイチェルは即座にその提案を拒否した。産褥から回復しなかったマデリンに代わり、彼の面倒を見てきた彼女には、アレックスは自分の子供のような存在だった。
早くに両親を亡くし、妹を養いながら生活してきたレイチェルにとって、アレックスは妹の残した忘れ形見、唯一の肉親だ。

何があってもこの子は絶対に手放さない。
周囲の反対を押し切ったレイチェルは、固い決意を持って、彼を養子に迎える法的な手続きに踏み切ったのだ。


だが、それですべてが丸く収まったというわけではなく、経済的、精神的、そして肉体的な数多の困難が彼女を待ち受けていた。
看護師である彼女は、乳児の世話の大変さは知っているつもりだった。
だがすぐに、母親の傍でサポートをすることと実際に自分が一人でするのでは、まったく勝手が違うことを痛感せざるを得なくなった。
生まれて半年も経たない赤ん坊を育てながら、フルタイムの仕事をこなすのは並大抵のことではない。
これまでは、いつも母親であるマデリンが側にいて、体力の許す限り多少なりとも彼の世話をすることができたが、今となってはそれらがすべてレイチェルの肩に掛かってきた。
彼女の手が回らない時間は仕方なくベビーシッターを頼むことになるが、思っていた以上にその経済的な負担が大きい。 アレックスが正式に養子となった今では、公的機関の経済的な援助も激減してしまった。仕方なく夜勤を増やし、何とか凌いでいる状況がここ1ヶ月ばかり続いている有様だ。

仕事をしなければ生活が立ち行かない。だが、仕事をすればするほどアレックスにかかる費用が増えていく。抜け出せないスパイラルに、待ったなしの育児の疲労感が追い討ちをかける。
それでも何とか耐えていられるのは、彼の笑顔を見ることができるから。
あの乳児特有の甘い香りと柔らかな肌、そして天使のような寝顔。黒い巻き毛を撫でていると、どんなに疲れていてもそれだけで気持ちが満たされる。
「大丈夫。あなたはちゃんと私が育ててあげる。どこへもやらないからね」


いつの間にかソファーでうたた寝をしていたようだ。
ひと時の安らぎは、けたたましい玄関のブザーで破られた。
側のゆりかごで眠っていたアレックスも、突然の来訪者に驚いたのか、火がついたように泣き始める。
「ああ、アレックス、いい子だからちょっとだけ静かにしていて」
慌ててゆりかごを揺らすが、一度泣き出した赤ん坊はなかなか収まらない。
そのうちにまた玄関のブザーが鳴りだした。
「ああ、もうっ」
アレックスを抱き上げようとした彼女は、寸でのところでそれを思い留まった。
泣き叫ぶ赤ん坊を抱いたまま来訪者と応対することは難しい。それよりも早く用件だけを聞いてお引取り願おう。


相変わらずブザーの音は続いていた。
一体どんな用かしら。こんなにしつこく呼び出し続けるなんて。
荷物の配達ならば不在と思い再度出直すだろうし、勧誘ならここまで執拗にはしない。
アレックスの泣き声が洩れ聞こえないようにリビングのドアを閉めると、レイチェルは訝しみながら玄関へと急いだ。
怪しい人だったらこのまま居留守を通そう。
そう思いながら、念のため、ドアスコープをのぞいたレイチェルは、思わずその場に凍りついた。

グラント・ハミルトン。
なぜ、あの男がここに?

そこにいたのは1年前、冷笑と共に彼女をオフィスから追い出した、傲慢な男だった。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME