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復讐は甘美な罠 19


サムと別れ、屋敷に帰ったレイチェルは、グエンの様子を見るために病室を訪れた。
ここ数日、気候の変わり目の影響もあってか、グエンの調子はあまり芳しくなかった。

「ただ今戻りました」
午前中に投薬を済ませているので、さほど大事な用もなかったが、顔色を見て、念のために血圧と体温を測る。

「お友達とのお話は済みましたか?」
グエンには出掛ける理由を伝えてあった。
「はい」
少し寂しそうな笑みを見せる彼女に、グエンが何か問いたげな目を向ける。
「心配なことでもあったのですか?」
レイチェルは目を伏せると、首を横に振った。
「いえ、そんなことは。ただ…」
言いかけた言葉がよどむ。
「気がかりなことがあるのなら、言ってみなさい。心の中に溜め込んでいるよりも、誰かに話した方が、気が楽になることだってあるのよ」

レイチェルはグエンドリンを躊躇いがちに見た。
いくらグエンが好意でそう言ってくれたとしても、彼女が抱えている悩みを話すわけにはいかない。今更グラントとの話をなかったことにして欲しいとは、この結婚を喜んでいるグエンにはとても言い出だせなかった。

今日サムと話をしていて改めて気付いたのだ。こんな結婚をしてはいけないのではないかと。
あの時は怒りと勢いで契約結婚を承諾したものの、レイチェルは今になって段々と自分の決断に自信を持てなくなっていた。
そもそも彼女にとっての結婚とは、互いの深い愛情と尊敬の上に成り立つものだった。
自分の両親や祖父母がそうであったように。
グエンやグラントが育った上流階級の通例と、レイチェルが長年培ってきた価値観との間には雲泥の差がある。彼らにとっては、結婚は取引と同列の行為なのかもしれないが、同じ割りきりがレイチェルにもできるとは限らないのだ。

サムの幸せそうな表情を見ていたレイチェルは、自分には絶対こんな顔はできないと思った。どんなに「大丈夫」と自分に言い聞かせても、不安は納まるどころか、日々募っていくばかりで、心の中に暗い影を落し続けている。
そんな自分が嫌で、気持ちはどんどん落ち込んでいくのに、外では平気な顔をしていなくてはならないことが苦しかった。

果たして、このまま結婚を強行しても、夫となる男性に愛情を持てないまま家庭を作っていけるのか。
そして、常に離婚の予感と背中合わせの日常がどんなものになるのか。
アレックスのためを思ってしたことが裏目に出たときに、失うものの大きさを考えると、これから自分がしようとしていることが恐ろしく感じられた。


「まだ迷っているの?」
何も答えない彼女の不安を見透かしたようにグエンが問う。
「こんな状況では無理もないわ。グラントはあの通りの性格だし。でも、あなたにはあの子を変える力があると、私は思っているの」
「彼を…変える?」
「グラントが以前に結婚していたことは話しましたね。すぐに離婚してしまったことも」
レイチェルは頷いた。
「離婚の理由は性格の不一致とか言っていたけれど、本当のところは誰も知らないの。でも、私は不仲の原因は、グラントの側にあるのではないかと思っているわ」
孫により多くの非があると言う彼女を訝しむレイチェルを見ながら、グエンが続ける。

「あの子は、本質的に女性を信じられないのよ。多分、母親に裏切られ、捨てられた経験から抜け出せないのね。
それに大人になってからも自分に寄ってくる女性たちが尽く皆、お金目当てだったりしたものだから、ますます女性不信になってしまったみたいで」
「でも元の奥様は、彼を裏切るようなことはなさらなかったのでしょう?」
レイチェルの問いに、グエンが頷く。
「少なくとも結婚した時には、ティーナは本当にグラントを愛していたのだと思うわ。でもグラントは心から彼女を愛していたわけではなかったと、私は思っているの。
ティーナは彼が接したことのない、家族や家庭というバックグラウンドを持っていた。グラントはそこに憧れたのだと」

元妻は南部育ちで、家族間の結束が固かった。彼女は、何事かがあればすぐに親戚中が集まるような、昔ながらの大家族の中で育ったのだ。
何度かそういった機会に遭遇したグラントは、ティーナを介して、その中に自分が持てなかった理想の家族像を投影したのかもしれない。
「でも、ティーナはどちらかと言うと家族の束縛を嫌っていたみたいなの。それに彼女は愛情を注がれることには慣れていても、自分が愛情を注ぐことには不慣れだった。期待したものが得られなかったグラントの気持ちは急速に彼女から離れ始めた。
可哀想に、多分ティーナはそれに気付いてしまったのね」

当然、ティーナは彼の気持ちを再び自分の方に向けさせようとしただろう。だが、グラントがそれにうまく応えることができなかったとしたら…彼のように、他人に簡単に心を開けない性格の人にはあり得ない話ではない。
彼女が夫の注意を引こうとすればするほど、グラントはそれに煩わしさを感じ、二人の間に微妙な距離を置くようになってしまった。
ここで、互いに愛し合っている夫婦ならば、愛情を糧に関係を修復することもできる。
だが、想いが一方通行でしかなかったティーナには、夫婦の危機に直面したときに、その壁を乗り越えられなかったのだろう。
そして熱情に突き動かされた若気の至りの結婚は、あまりにもあっけなく幕引きに至った。
その愛憎劇の筋書きは、伴侶を持った経験のないレイチェルにも容易に想像ができた。


「グラントには、愛情を求めるのではなく、与えてくれる女性が必要なの。対価を求めない無償の愛を、ね。
愛されるということがどういうことなのかを知り、それに心から応えることができるようになった時に、初めてあの子は本当に人を愛するということの意味を知ることができる。
そう私は思っているの」
グエンは、嘱するようにレイチェルに語り続ける。

「あなたには深い慈愛と優しさ、そして愛するものを守ろうとする強さがある。それは何物にも代えがたい大きな力なのよ」
まるで遺言を託すかのごとく、一言一言を噛み締めるように語りかけるグエンの言葉に込められた思いを、レイチェルは複雑な気持ちで聞いていた。
私にあるのは、ただアレックスを大切に思う気持ちだけ。強さだの、優しさだのといったものは、グエンの買い被りに過ぎない。
ましてや、グラントを動かすような力など、備わっているわけがないのに。

押し黙ったまま、何も返そうとしないレイチェルに、グエンの口調が懇願を帯びる。
「アレックスを慈しむように、できることならば、グラントも愛してあげて欲しいの。求めても得られなかった愛情を与えられれば、いつか必ずあの子も心を開くでしょう。
今のままでは、グラントは生涯、人を愛することも愛されることも知らないままに過ごしてしまう。それだけが私の心残りなのですよ」




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