自室に戻ったレイチェルは、悄然とベッドに腰を下ろした。 結婚ですって? しかも、妹を死に追いやった原因を作ったも同然の、敵と恨んだあの男と…。 そんなことは考えたこともなかった。 だが、アレックスのこととなると、グラントは本気だ。仮に今、何とかこの場をしのげても、いずれは法廷で向き合うようなことになりかねない。 社会的、金銭的に自分より絶対的な優位に立つグラントに、到底自分が太刀打ちできるとは思えなかった。 「何でこんなことになってしまったんだろう…」 最初にあの子を見捨てたのは彼の方だったはずなのに、今頃になって何と身勝手なことを言い出すのか。 あまつさえ契約結婚などという、馬鹿げた話を持ちかけてくるとは。 彼は、自分がすることはすべて正しい事だとでも思っているのだろうか。 大した思い上がりだわ。 レイチェルの中で燻っていた、怒りの炎が再び燃えはじめる。 元はと言えば、グラントがマデリンとジェフリーを無理やりに引き離したことからはじまった話だった。 その心労でマデリンが、そして次いで事故でジェフリーが亡くなったためにアレックスは孤児となってしまったのだ。その原因すべてがグラントにあるとは言わないが、少なくとも彼がそうした行動を取らなければ防げたこともあったはずだ。 だが、グラントはそれを省みることもなく、今度はアレックスを手に入れるためだけに、レイチェルに結婚を強要している。 『私としても不本意だ…』グラントが彼女に放った言葉が甦る。 そう、彼にとってもこの結婚は、本意ではないのだ。 そもそも彼は結婚そのものを望んではいない。 その時、レイチェルの耳元で魔性の声が囁いた。 これはチャンスかもしれない。今までマデリンとアレックス、そして私が受けた仕打ちを彼に思い知らせるための…。 グラントに、自分を恨む女をパートナーとして扱わなければならないことの深刻さを味わわせることができたら、さぞや気持ちよく意趣返しができるだろう。 私が、何でも彼の思い通りに動くロボットになると思ったら大間違いだ。 復讐 ―そう、この結婚は報復の手段になるかもしれない。 このままむざむざとアレックスを取り上げられるくらいなら、こちらからあの男の懐に潜り込んで引っ掻き回してやる。 「いいわ。その契約に応じましょう」 レイチェルは独り呟いていた。 「あなたが自分の間違いに気付くまで、私はとことん闘うわ。覚悟することね、グラント・ハミルトン」 騒ぎになった時の近隣への配慮もあり、結局レイチェルたちは自宅に戻ることができないまま、アパートメントを出ることになった。 備え付けのベッド以外の大きな家具や食器類は、グラントが手配した業者にすべて処分を依頼した。それほど多くはない小物類は、引越しの立ち会いを頼んだ隣人のサマンサが選り分けて片付けてくれた。 その際に、衣類などは箱詰めにして搬出したが、僅かの貴金属や書類等の貴重品は、後日サムと会って直接手渡してもらうことになっていた。 「あなた、本当にそれでいいの?」 アパートメントを引き払って数日後、待ち合わせをしたカフェでレイチェルから話を聞いたサマンサは心配そうに彼女の方をうかがっていた。 「ええ、多分。いえ、きっと上手くいくわ」 サムには結婚が契約を前提にしていることは言わなかった。 ただ、アレックスの安全を考えてハミルトン家に身を寄せることに同意したこと。そこでグラント結婚を申し込まれたこと。そして親権の問題もあって、グラントとの結婚に踏み切ることに決めた、ということを伝えるに留めた。 「あなたが、あのハミルトン氏と結婚とはねぇ…でも思っていたよりも良い人のようじゃない?」 アパートメントで騒ぎがあった後、グラントはすぐに手を打ち、近辺の警備を厳しくしたようだった。後日、自身も現場に出向き、サムにも挨拶があったと聞いている。そのせいか、あの日以降は目だったトラブルも起らず、レイチェルは家主とも円満な形で退室の話を進めることができた。 それもあってか、サムのグラントに対する評価は以前よりもかなり良くなっている様子だ。 「実はね、レイチェル。私ももうすぐ引っ越すことになりそうなのよ」 「えっ?」 突然の話にレイチェルは目を丸くした。 「マットがね、来月、故郷の西海岸に戻ることになって。一緒に来ないかって言われているの」 マットはサムの長年のボーイフレンドだ。 レイチェルも彼を知っている。何度か一緒に食事をしたことがあるし、彼が来ている時にサムの部屋でアレックスを預かってもらったこともある。 「子どもたちは独立したし、それも良いかなと思って。後はあなたとアレックスのことが心配だったのだけれど、ミスター・ハミルトンが付いていてくれるのならば大丈夫でしょう」 今の状況で本当に大丈夫なのか、自分でも分からない。だが、それをサムに言うことはできない。そんなことをしたら、彼女が引越しを思いとどまってしまうかもしれないからだ。 せっかく掴みかけているサムの幸せを壊したくはなかった。 「そう、おめでとう、って言っても良いのかしら?」 少し照れた笑いをするサムを見て、気の合う友人が遠くに行ってしまうことに一抹の寂しさを感じながら、レイチェルは曖昧に微笑んだ。 そんな彼女の様子を見たサマンサは、レイチェルの手取ると強く握り締める。 「でもね、レイチェル。もし何か嫌なことや辛いことがあったら、いつでもこっちにいらっしゃい。あなたとアレックスが寝泊りできるくらいの場所はいつでも空けておいてあげるから」 彼女の憂いを知っているかのようなサムの言葉に、レイチェルが思わず涙ぐむ。 「ありがとう。今までもたくさんお世話になったわ。サム、あなたが友人でいてくれて本当によかった」 それからしばらくは、とりとめもなく互いのこれからのことを話した。 だが、幸せそうに未来を語るサマンサを目の前にして、レイチェルは自分の前途に立ちふさがる不安を必死に押し隠していた。 HOME |