グラントの書斎から自室に戻ってきたレイチェルは、崩れるように自分のベッドに倒れこんだ。 「疲れた…」 今は見慣れた天井を眺めながら呟く。 今日一日のうちに起った出来事が、現実とは思えなかった。 マデリンが亡くなってからというもの、何かがおかしくなり始めた。 それまでの質素だけれど落ち着いた暮らしは一変してしまい、今や彼女は無理やりジェットコースターに乗せられた気分だった。 マデリンさえ生きていてくれたら、もっと客観的に、冷静に周囲の状況を見ることができたかもしれない。だが、レイチェルにはそれだけの心の余裕がなかった。 アレックスに対する責任をすべて一人で負うことは、彼女にとってもかなりの重圧だったのだ。 それでもアレックスを手放すなどということは、レイチェルの選択肢にはない。 あの子は私の息子。たった一人の肉親なのだから。 アレックス…。 レイチェルは気力を振り絞って起き上がると、室内のドアを挟んでひと続きになっている子供部屋へと足を踏み入れた。 すでにアレックスは食事と入浴を済ませ、ベビーベッドですやすやと寝息を立てている。 その少しウェーブがある黒髪を撫でながら、レイチェルは知らず知らずのうちに、いつかと同じ言葉を囁いていた。 「ねぇ、アレックス、あなた、私といて本当に幸せなのかしら?」 彼女の収入では食べていくだけで精一杯。 こんな風に贅沢な暮らしをさせてあげられないのは分かっている。 ここは何でも揃う、恵まれた生活が約束された家。 それでもレイチェルはアレックスをハミルトンに委ねることはできなかった。 この大きな屋敷で、嘗てのグラントやジェフリーのように、いつも使用人に囲まれて寂しい生活を送る子供にはしたくなかったからだ。 だが、このままでは、いずれこの子もハミルトンの財力に取り込まれてしまうのではないか。 レイチェルには、今日の出来事がその予兆に思えてならなかった。 ここを離れるならばできるだけ早い方がいい。 グエンを最後まで看護することが出来ないのは心残りだが、私にはアレックスのこれからの方が何倍も大切だ。 レイチェルはそう決意すると、ベビーベッドに屈みこんでアレックスに頬ずりした。 「またもとの生活に戻ってしまうけれど。アレックス、二人で仲良く暮らそうね」 翌朝、珍しいことに朝食の席にグラントがいた。 「おはようございます」 挨拶をして食堂に入ると、レイチェルはいつも自分が座っている席についた。 「おはよう、ミズ・ローガン。昨夜は眠れたかい?」 目の周りにできた薄い隈に気付いたグラントが、彼女のことを気遣う。 「ええ…いえ、あまり…」 明け方近くまでかかって、レイチェルは自分とアレックスの私物を荷造りした。 幸いなことに、自分が持ってきた荷物はそんなに多くないし、狭いアパートメントのことを考えれば、ここに来てからグラントが買い与えてくれたアレックスの道具類もほとんど持って帰ることは出来なかった。 「あの、少しお時間をいただけませんか。お話があるのですが」 食欲が湧かず、出されたジュースだけを飲み干すと、レイチェルはグラントに向かって切り出した。 「私も君に話したいことがある。食事が済んだら、書斎へ来てくれないか」 先に食事を済ませたクラントが、そう言い残して食堂を後にする。 もう何も食べる気にならなかったレイチェルは、慌てて席を立つと彼の後を追った。 書斎に入ると彼女はソファーに座るよう促された。グラントは書類が積まれた重厚な机の向こうに座っている。 「昨日、祖母が言った件だが」 「そのことでしたら、はっきりとお断りしたはずです」 話し出したグラントの言葉を、レイチェルが即座遮った。 彼の方も、あれほど憤慨しながら退けた話だったのに、なぜまた蒸し返すのか。 「しかし、それを見たまえ」 目の前のテーブルに、今朝の新聞がいくつか並べられている。その中にはタブロイド紙もあった。紙面を大きく割いて、ハミルトンの文字が見出しに踊っている。 「昨日より状況がさらに悪化した。すでにアレックスはパパラッチのターゲットになっているのだ。そのうち身代金目的の誘拐を目論む輩も出てくるだろう」 「誘拐?」 レイチェルが身震いする。 「それならばなおのこと、一刻も早くこの屋敷から出て行きます。もうこれ以上アレックスをここに置いておくことはできないわ」 それを聞いたグラントが、苛立たしげに指で机を叩く。 「それには同意できない。君の無防備なアパートメントではあの子を警護しきれない。ここにいれば最低限、身の安全は守られる」 「このまましばらく今の生活を続けた方が良いとおっしゃるのですか?」 頷くグラントを見たレイチェルだったが、ではなぜ彼が再び昨日の話を持ち出してきたのかが分からなかった。 「ただ、このままいつまでもアレックスを宙ぶらりんの状態で放っておくことができないのは、君にも分かっているだろう」 「…ええ」 不承不承ながらも同意する。 今のアレックスの立場はかなり不安定だ。 両親はすでに他界、現在の保護者は養母である伯母のレイチェルだが、父親の親族と同居している。その上、認知さえされていないにも関らず、素人には管理しきれないほど膨大な、亡き父親の遺産の相続人でもあった。 「そこで君に提案がある」 「提案?」 レイチェルが訝しい顔をする。 「私との契約結婚だ」 「契約、結婚?」 聞きなれない言葉に、レイチェルは戸惑いを隠せない。 「便宜的に結婚はするが、契約で決めたこと以外、互いの生活に干渉しない。だが、対外的には二人は夫婦として扱われる。無論、アレックスは私たちの正式な養子として周囲に是認させる」 「でも…」 「今の状況からすると、これ以上の策はないだろう」 「そ、そんなこと、できません」 レイチェルは憤慨しながらそれを拒んだ。 契約結婚。 結婚までも取引の材料に使うなんて、人を虚仮にするにも程がある。いくらアレックスが可愛くても、そんな馬鹿馬鹿しい話に乗れるわけがない。 「だが、他に方策はないと思うが」 「あるわ。だから私たちがここを出て、あなたたちと縁を切ってしまえば良いのでしょう?」 「それはできない相談だ。もし、君がどうしてもここを出たいというのならば、止めはしない。だが、アレックスはハミルトン家の人間だ。彼はここに置いて、君一人で出て行きたまえ」 「そんなこと、できるはずがないでしょう?何があってもアレックスは連れて行きます」 「しかし、万が一の場合、君の力ではアレックスは守り切れない。それは昨日のことでも明らかだろう」 それを聞いたレイチェルが、顔を強張らせた。 「それに、そんなことをしても無駄だ。祖母はああ言って君たちを切り離すことには反対だが、私は違う。 今ここを出て行くならば、すぐにアレックスの親権を争う準備をするつもりだ。そうなれば、君は…親権はおろか、養育権すら手にできなくなるだろう」 それが何を意味するのかを悟ったレイチェルが小さく喘ぐ。 「こんなことを…見せ掛けとはいえ結婚までしなければならないこと自体、私としても不本意だ。君が素直にアレックスをこちらに渡せば、こんな手の込んだことをする必要はないのだからね」 グラントはそう言い置くと、呆然と座り込んだレイチェルをその場に残したまま、一人書斎を後にした。 HOME |