書類を取りに屋敷へ戻ったグラントは、ついでにと祖母の病室を見舞った。 そこで見たのは、いつものコットンシャツにジーンズではなく、慣れないドレスの裾捌きに苦労しているレイチェルの姿だった。 今日は執事を相手にダンスの練習をしているようだ。 ここのところしばしば祖母がこういった機会を持っていることは知っていたが、実際にその場に居合わせたのは初めてだった。 屋敷の使用人の最古参にして、マナーブック顔負けでもある執事は、一通りの社交術をわきまえている。もちろん、ダンスも心得があるはずだ。 だが、如何せん、相手がレイチェルではまったくリズムに乗れず、何度も脚を踏まれては立ち往生していた。その度に笑って許しているようだが、レイチェルが彼に何度も申し訳なさそうに謝っている様子がうかがえた。 ここに来てひと月ほどで、レイチェルはすっかり屋敷に馴染んだ。 最初はアレックスのこともあり、好奇な目で二人を見ていた使用人たちも、最近では彼女に一目置いているのがわかる。 誰に聞いても彼女の仕事ぶりは完璧で、主人だけでなく、使用人たちに対しても腰が低く、礼儀正しく接しているという。 その上、アレックスに対する献身ぶりは、彼女の母親としての評価を最大限に押し上げていた。シッターは常時付いているが、それでも暇を見つけては彼と一緒に過ごす時間を作っているようだ。 「レイチェル様には、ご自分のためのお時間など、まったくないのではないかと思いますが」 最近、執事がそう漏らしていたのを思い出す。 実際にこのひと月の間に彼女が外出したのは、アレックスの検診と短時間で数回の買い物だけで、夜間に出歩くことは皆無だったと聞いていた。 執事が口で刻む拍子に合わせてレイチェルが身体を動かすたびに、翻るドレスの裾につい目が吸い寄せられる。 元々彼女がスリムな体つきをしているのは知っていた。 だが、胸元が大胆にカットされ、体のラインを強調する優美なドレスを着た彼女は、スレンダーではあっても間違いなくセクシーだった。 見ているだけで、思わずこちらの体の一部が反応してしまうほどに。 この体で今まで一体どれだけの男を虜にしてきたのか。 苦い思いでグラントが見つめる。 初めて会った時から、彼女が魅力的な女性であることは感じていた。 着ているものや髪型は地味で、あくまでも控えめだが、さりげない仕草や表情には何とも男心をそそるものがある。 彼女は何もしなくても周囲の視線を、もっと言えば男の目を引き付けるタイプの女性だ。 だが、表面的な穏やかさの中に潜む感情の激しさは、彼女が一筋縄ではいかない女であることを物語っている。よく似た容貌をした姉妹でも、一度きり会ったことのある、彼女の妹はどちらかと言うとたおやかで優しげな印象だったが、姉のレイチェルは違った。 あの時、敢然と彼に立ち向かってきたレイチェルは、エメラルドのような瞳に憎悪の光を宿し、全身で敵愾心を露にして妹のために戦っていた。その姿は、戦場に臨み剣を振るうゲルマン神話の女戦士、ヴァルキューレの姿さながらだったことを思い出す。 そして今、アレックスを彼に渡すまいと虚勢を張る彼女は、子どもを連れた雌ライオン顔負けの勇ましさだ。 まるでアレックスを本当のわが子のように、守ろうとしているかに見える。 グラントはそんな考えを打ち消すように首を振った。 確かにレイチェルはアレックスを可愛がってはいる。それは認めよう。 だがそれはすべて甥の受け継いだ遺産の…金のためだ。 それ以外の理由は、思いつかない。 そのうちに見せかけの慈愛に満ちた、その仮面を剥ぎ取ってやる。 グラントは冷めた目で、ぎこちなくステップを踏む彼女を見つめると、上辺だけの笑みを顔に貼り付けて室内へと足を踏み入れた。 「見違えましたよ、マダム」 その言葉に、驚いたように振り返って彼を見たレイチェルの顔が真っ赤に染まる。 「ミスター・ハミルトン…」 「あら、グラント。帰っていたの?」 グエンは、ベッドの背を高くして、座って様子を見ていたようだ。 「どう?レイチェルは。なかなか素敵でしょう?」 「いえ、そんなこと…。こんな高価なドレスを着たのは初めてですから」 ますます赤くなるレイチェルが慌てて打ち消す。 「なるほど。だが、こうするともっといい」 グラントはレイチェルの側に歩み寄ると、無造作に束ねられた彼女の髪を軽く捻り、頭の上のほうに寄せ上げた。 「この方が首筋の綺麗なラインがよく見える」 なぜ彼は今日に限ってこんなことをするのだろうか。いつもは彼女に対して鼻であしらうような態度しか取らないのに。 彼の指に髪を絡められたレイチェルは、身動きができなかった。 その言葉以上に、すぐ側にある逞しい体から発せられる熱は、彼女を混乱させるに充分な熱さだ。 「ちょうど良かったわ。グラント、あなたレイチェルのパートナーをなさいな。 今ワルツの基本ステップを覚えていたところなのよ」 「で、でも、ミセス・ハミルトン。ミスター・ハミルトンはお忙しいですからご迷惑が…」 「大丈夫よ。ほんの少しだけだから。グラント、いいでしょう?」 祖母にそこまで言われると彼も断れない。 グラントはわざと仕方がないという顔をして頷いた。 「1時間ほどなら大丈夫でしょう。私がいなくても、その間に会社が潰れることはない」 「よろしい」 グエンは満足そうな笑いを漏らすと、側にいた執事に曲を流すように促した。 HOME |