その日、一日をかけて荷造りしたレイチェルは、アレックスを連れてハミルトンの屋敷に移った。 細かな日常品以外はほとんど持っていく必要がないとはいえ、思いのほかアレックスの必需品が多く、荷造りには手間がかかった。 彼女のアパートメントは、契約期間中はそのままグラントが管理してくれることになっている。 一時のことではあるが留守を頼むついでに、とりあえず隣人のサムにはかいつまんでいきさつを話しておいた。 彼女は心配しつつも、好条件な仕事であることを認め、レイチェルとアレックスを送り出してくれたのだった。 数日後、所用でアレックスを連れて外出したレイチェルがハミルトンの屋敷に帰ってくると、早速ベビーシッターを紹介された。 ナニーの資格も持っているというその女性はリンと名乗り、帰宅したばかりのアレックスをレイチェルから預かると、手馴れた様子ですぐに入浴させる準備を始めた。 見たところ、レイチェルとそんなに年の差はないようで、きびきびした動きや、馴染みやすい明るい性格も好印象だ。 レイチェルが「仕事」としてグエンドリンの病室に詰めている間は、主にリンがアレックスの世話をしてくれることになっている。 この仕事を請け負った当初、レイチェルはアレックスにシッターをつけることには懐疑的だった。 職場に通う間は他に手段がなかったためにやむなく保育施設に預けていたが、同じ建物の中にいれば時々様子を見に行けばよいので、そんな必要はないと考えたのだ。 しかし、いざそうなってみると、思ったようには時間が取れなかった。 最近這うことを覚え、ちょっとした隙にいつの間にか目が届かない所まで動いていってしまうアレックスからは片時も目が離せなかった。ベビーベッドに寝かせておいても、目が覚めると柵を掴んで立ち上がろうとする。 注意してみていなければ、危ないことこの上ない。 食事も以前のようにミルクだけなら時間が読めたのだが、離乳食を始めるや急に手間がかかるようになった。 昼寝をする時間が短くなり、機嫌が悪い時は誰かが側にいないといつまでもぐずぐずと泣き続けたりする。 どうにも仕事に支障をきたしそうで、やむなくレイチェルが折れ、グラントと相談して信頼できるシッターを手配してもらうことにしたのだ。 レイチェルの仕事は、朝、グエンドリンの健康状態をチェックすることから始まる。 始めの数日、彼女はいつもの白衣を着て仕事をしていたが、グエンの希望で普段着のままで良いことになった。 「では、この上からエプロンをかけることにします。それならば…」 「その方がありがたいわ。白衣を見ると何だか気持ちが滅入るのよ。私をあまり重病人扱いしないでね」 不思議なことに、彼女が側で看護をするようになってからは、グエンの容態は安定していた。 ただ、やはり年齢による衰えは隠せないようで、じわじわと体を蝕む病気がそれに追い討ちをかけていることには変わりない。 レイチェルは毎朝病室に赴きグエンに挨拶をすると、まず検温をし、血圧を測り、食事の摂取量を確認する。 それを医師に報告して、その日投与する点滴や薬剤の指示を受けるのだ。 よほどグエンの体調が悪くない限り、午前中でその大半は完了する。 余った時間は患者の話し相手になったり、食事や入浴、排泄介助の世話をして一日を過ごすことになる。 それでも以前の病院勤務に比べれば時間に余裕があるくらいだが、困ったことに、彼女はここに来てから予定外の課題を課せられることになった。 「ミセス・ハミルトン、これはちょっと…」 ある朝、レイチェルが病室に「出勤」すると、そこには見たこともないような豪華なドレスが吊り下げられていた。 「あら、ドレスがなくては、お作法は習えなくてよ」 レイチェルの課題。 それは一昔前の「貴婦人教育」そのものだった。 上流階級の冠婚葬祭の常識に始まり、ダンス、食事作法、果てはパーティーに招かれた時のドレスの選び方から飲み物のオーダーやチョイスの仕方まで。 グエンドリンが直々に、又は講師を付けてレイチェルに教えると言うのだ。 最初、この話を聞いた時、もちろんレイチェルは固辞した。 学んでも披露する機会はないし、そのようなことをしてもらう所以もないと思ったからだ。 だが、グエンは聞き入れようとはしなかった。 「でも、あなたがアレックスの母親である以上、どこかで必要になる時があるはずです。 あの子はハミルトンの息子。将来そういった場にも出ざるを得なくなることでしょう。その時に母親のあなたが堂々としていなければ、あの子にも恥をかかせることになるのですよ」 未だにグエンはアレックスを産んだのは亡くなったマデリンではなく、レイチェルだと思っているようだ。 ちゃんと真実を告げなければと思いつつも、なかなかそのチャンスは訪れなかった。 グラントによれば、家を出ようとしたジェフリーを無理やりに引き止めたのはグエンだったのだという。 そのせいで彼は自暴自棄になり、死に急いでしまったのだ、と孫の死に責任を感じている祖母に追い討ちをかけるようなことは、さすがに彼にもできないのだろう。 結果的にグエンがジェフを手放さなかったばかりに、マデリンまでが不幸な死に方をしてしまったのだが、今それを蒸し返しても誰も幸せにはなれないのだから。 「裾捌きは実際にドレスを着てみないと分からないものよ。心配しなくてもこれはオーダーしたのではなく、お店にあったあなたのサイズに合いそうなものを持って来させたのだから、そんなに高価なものではないわ」 物思いに耽っていた彼女は、その声にはっとして我に返る。 それでも、このドレスは彼女のひと月分の給料程度では買えないような代物だろう。 「今日は気分が良いから、午後から私もご一緒することにするわ。その時にこれを着ていらしてね」 驚いたことに、このところグエンはベッドから起き上がり、車椅子を使えるまでに回復していた。 レイチェルが来た時には、点滴以外に栄養が摂れず、ほとんど寝たきり状態だったが、ここ数日は軽い食事も自ら進んで口にするようになった。 グラントに言わせれば、アレックスのお陰で生活に張りができたのだろうとのことだ。 日に数回、リンがアレックスを連れてこの病室を訪れるのを、グエンは心待ちにしいている様子だ。 図らずも、グラントが意図した通りになったのだが、自分たちが少しでもグエンのためになれたことが、レイチェルは素直に嬉しかった。 HOME |