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復讐は甘美な罠 1


朝8時。
夜勤を終えたレイチェルは、車で帰路を急いでいた。
8時半までに家に帰りつかなくては、隣人のサムに迷惑をかけてしまう。
だが、焦る気持ちとは裏腹に、幹線道路はいつも以上に渋滞していた。
「もう、こんな日に限って」
前方で事故を知らせる警察車両のシグナルが回っているのが見える。
普通なら20分もあれば通勤には充分なのだが、今日は職場である病院を出てから既に30分を越えていた。
「だめよ、落ち着いて。こんなことで自分まで事故を起こしたら、アレックスはどうなるの」
いらいらとした気持ちを抑えるように、大きく息を吐き出す。
そう、今の時点で彼が頼れるのは自分しかいない。
そしてまた、同時に彼女にとっても、肉親と呼べる存在は彼しかいなかった。

8時半ちょうど。
通り沿いにあるスペースに乱暴に車を停めると、レイチェルは通勤用の地味なカバンを掴んでアパートメントの階段を駆け上がった。
そしてポケットから取り出した鍵でドアを開けると、息を切らせながら中へと飛び込んだ。
「ごめんなさい。遅くなって」
狭いリビングでは、既に出勤の仕度を済ませた隣人のサマンサが、アレックスにミルクを飲ませていた。
「彼、今日はいい子にしているわよ。私はまだ大丈夫だから、今のうちに着がえていらっしゃい。それが終わってから交代してくれればいいから」
友人の親切に感謝しつつ、彼女は奥に一つあるだけの寝室へと向かった。


「ひどい顔色だわ」
小さな寝室に備え付けられたクローゼットの鏡に写る自分の姿を見たレイチェルは、思わず絶句した。
今週は通常勤務の他に、週3回の夜勤をこなした。
アレックスのおむつ代やベビーシッター代を稼ぐためだ。
それでもまだ、彼が元気な時は良い方だ。
今週に入ってからアレックスは突発性の発疹を出し、一日中ぐずり続けた。
結果、看病をしなければならないレイチェルは、仕事から帰宅してからもずっと彼に付きっ切りになってしまい、もう何日も食事はおろか、満足に睡眠も取れてはいなかった。
昨日は窮状を見かねた隣人で友人のサムが、自分の休みを潰して一昼夜、アレックスの面倒を見てくれたのだ。
サムは40代のシングルマザーで、息子と娘が一人ずついるが、どちらもすでに独立してしまい、現在はこのアパートで一人暮らしをしている。
以前から隣同士だった二人は、年齢の差を越えて仲の良い友人として付き合っていたのだが、今のレイチェルにとって自らの手で二人の子供を育てた経験のあるサマンサの存在は、この上なく頼りになるありがたい存在だった。

リビングに戻ると、サムがミルクを飲み終えて静かになったアレックスをゆりかごに落ち着かせているところだった。
「もうほとんど熱はないみたい。発疹もきれいになったし。でも、今度はあなたの方が、今にも倒れそうな顔をしているわよ」
サムに意味ありげな表情で見つめられ、レイチェル思わず目を逸らした。
彼女の言いたいことは分かっている。今まで何度も諭されたことだ。
「ねぇ、レイチェル。本当にこの子の父親に連絡する気はないの?」

レイチェルは反射的に否定の言葉を口にした。
「絶対にいやなのよ。あんな風に妹を辱めた男の顔なんて、二度と見たくもない。いえ、今度見たら八つ裂きにしてやるわ」
それを聞いたサムが、溜息をつく。
「気持ちはわかるわよ、ハニー。でもね、この子はいつか自分のルーツを探すようになるわ。まだ見ぬ父親や親戚、他の兄弟やなんかを、ね。
それに…今のままだと、あなたが坊やと共倒れになるんではないかと思えてしまって、それが心配でたまらないのよ」

サムには、かつて自分がそうであったように、経済的、そして心理的に余裕がないレイチェルの状況が手に取るように分かった。
シングルマザーに対する世間の風当たりは、決して優しいものではない。例えそれが意に反したものの結果であったとしても、誰も肩代わりしてくれる者がいないレイチェルのような場合では、責任と重圧を全て自分一人が受け止めなければならないのだ。
「せめて経済的な援助だけでもしてもらえたら。それだけであなたの負担はずっと楽になるはずよ。そうしないと、本当にあなたの方が先に参ってしまう…」

レイチェルは心底そう思ってくれている彼女の心遣いがうれしかったが、それでもこれだけは譲れなかった。
「大丈夫。最初の一年ほどを乗り切ればこの子もしっかりするわ。何より私は健康で、手に職があるもの。頑張れば、何とかやっていけるはずよ」

サムは肩をいからせて「お手上げ」のジェスチャーをした。
何度言っても、レイチェルはこのことだけには決して首を縦に振らなかった。
聞き及んだ状況からいって仕方がないことではあるのだろうが、それでも友人としての心配の種は尽きない。

「ほら、あなたも何か摂らないと。簡単なものだけど準備しておいたから、坊やが大人しくしているうちに食べなさいよ」
サムは出掛け間際にレイチェルにそう言い残すと、急いで仕事へと出掛けて行った。




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