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復讐は甘美な罠 番外編

ささやかな願い  1


「私、来月から職場に…看護師として復職しますから」

レイチェルの突然の宣言は、ハミルトン家の朝の食卓にとてつもなく大きな爆弾を落とした。

「ねぇ、パパ。『ふくしょく』ってなに?」
5歳になったアレックスは、自分のお皿に乗っているサラダから嫌いなトマトをこっそりと除けながら隣にいるグラントに話しかけた。
「ほら、アレックス、トマトもちゃんと食べなさい。残したら今日のお昼のお弁当に詰めるわよ。エミリア、ミルクが零れるでしょう?コップはちゃんと両方の手で持ちなさい」
レイチェルは、ベビーチェアーに座っている1歳になったばかりのカレンの口にスープでふやかしたパンを運びながら、自分とアレックスの間に陣取る3歳エミリアの手元にも注意を怠らない。

「ええーそんなぁ。ママ、ひどいよ」
アレックスが心底嫌そうな声で悲鳴をあげる。
「好き嫌いを言ってはいけません。そんなことだと幼稚園でお友達に笑われるでしょう?残さず食べなさい」
「ママの意地悪!」
「アレックス、意地悪とは何?早く食べなさい。幼稚園に遅れるわよ」

いつもこんな具合に朝の食卓は賑やかだ。
多忙で、日頃から夕食を一緒にとれないことが多いグラントも、朝食はできるだけ家族一緒にと決めていた。
「パパぁ…意地悪ママに何とか言ってよ」
半べそのアレックスがグラントに助けを求める。
だが、いつもならば取り成してくれるはずの父親が今朝に限っては無言だった。
「パパ?」
新聞に隠れた表情を窺うことはできないが、父親の機嫌がすこぶる悪いことは、小さな子供にも何となく察せられた。
アレックスが、どうしたんだろうと訝しむような顔をしたのをレイチェルは見逃さなかった。夫婦のもめごとに子供を巻き込むなんて最悪だ。
「アレックス。諦めて口に入れなさい。半分は残していいから」
「やったっ」
粘ってごねて引き出した譲歩に、アレックスは母親の気が変わらぬうちにと口いっぱいに嫌いな野菜を詰め込んだ。
「ごちそうさま〜」
コップのミルクで無理やりに口の中のものを流し込むと、彼は身支度を整えるためにナニーのリンの部屋に駆け出して行った。
「こら、ちゃんとお口を拭きなさい…って、もう聞こえないわね」
レイチェルはその背中を見送りながら諦めの口調でそう呟くと、食卓に残る二人の娘の食事を促した。


その間、グラントは不気味なほど静かだった。
何も言わず、ただ黙々と新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。
やがて自分も食事を終えたレイチェルは、カレンをベビーチェアーから抱き上げると、エミリアの手を引いてアレックスを見送りに玄関に向かおうとした。
「ダメだ」
グラントは読み終えた新聞をたたみ、側らのテーブルへと置いた。その不機嫌な低い声に、レイチェルが足を止める。
「グラント?」
「何で今、わざわざ看護師に復職する必要がある?まだ子供たちも小さくて手がかかるというのに」

これまでレイチェルは、アレックスを始めとして、結婚後に後に生まれた幼い二人の娘も加えた3人の子供の育児に追われてきた。
数年前にも一度、現場に復帰しようと考えたことがあったのだが、その直後にカレンを妊娠していることが判明したために、諦めた経緯があった。だが先月、末娘のカレンが断乳をすませて、ようやく彼女も自分の自由になる時間が持てるようになったばかりなのだ。
「でも、アレックスは日中は幼稚園に通うようになったし、エミリアたちにはずっとナニーのリンが付いていてくれるでしょう?この子たちに一番手がかかる時期は過ぎたのよ」

実は彼女はもうすでに、夫に内証で再就職先を決めていた。
そこは以前に面接を受けた公立の診療所だった。その時にはグラントの怪我や自身の妊娠、出産で話が立ち消えになってしまったのだが、その後もハミルトン家は毎年診療所の建物の修繕費用や医療器具の寄付を続けていた。
相変わらず診療所に来る患者の多くは低所得者層の市民で、財政は厳しい状況が続いていると聞いている。払える賃金は限られているために待遇に不満を持つ医師や看護師の出入りが激しく、人手不足は未だ解消されないままだったので、診療所の所長は多くを求めないレイチェルの打診に諸手を挙げて受け入れを保証してくれたのだった。
当面は週4日、半日程度のパートタイムでの勤務となるが、彼女にとっては約5年ぶりの現場復帰だ。ありがたいことに、レイチェルは生活の心配をしなくても良い分、賃金よりも時間や体力の都合を優先させることができる。


「無理して働く必要がないのに、なぜそんなにまでして…。とにかく、今はダメだ。私は絶対に認めないからな」
グラントはそう言い置くと、不機嫌な表情のまま出勤の仕度のために自室へと引き上げてしまった。

その後姿を見ながらレイチェルは溜息を漏らす。
結婚して4年が過ぎたが、グラントは彼女にとってこれ以上ないほど優しく包容力のある夫だ。二人の娘の妊娠中も彼の目が他所を向くようなことは一度もなく、風船のようになってしまった自分を絶えず慈しんでくれた情熱的な男性でもある。
子供たちに対しても外では厳しく躾けているが、家に帰れば子供に、特に娘には恐ろしく甘い、ごく普通の父親だ。

だからこそ、彼との間にある価値観の差がなかなか埋まらないことは、レイチェルの悩みのタネとなっている。
彼女が金銭的な理由以外でもっと外に出て働きたいと思っているということが、彼にはどうしても理解できないらしい。
確かに彼女は経済的に不自由があるわけではない。夫であるグラントの財力に加えて、自身もグエンドリンから遺された『ミセス・ハミルトン』の財産を使いきれないほど相続している。それらを考えると、世間一般の女性たちに比べて恵まれ過ぎている嫌いがあるほどだ。
しかし、レイチェルには自立した女性として、今まで何もかも自分の力でやり遂げてきたというプライドがあった。もちろん、母親の務めは何よりも優先される、一番大事なものだ。だが同時に看護師の仕事も彼女にとっては天職だとも自負していた。
幼い頃から労働は尊いものだと教えられてきたし、両親を亡くした後祖父に引き取られた後もそう信じてきた。実際、祖父亡き後にまだ小さかった妹のマデリンを養えたのは、自分が看護師として働いて食い扶ちを稼ぐことができたからだ。

当時を思い出すと、彼女は今でも遣る瀬無い気持ちになる。
あの時はとにかく生活していくために、どうしてもお金が必要だった。特にアレックスが生まれ、マデリンが亡くなってから暫くは、自分でも金の亡者になったのかと思えるくらい我武者羅にお金になる仕事を求め続けた。
何も考える余裕がなかった。
何かに追われるようにひたすら働いた。今思えば、一日一日が生きるための戦いの日々だったように感じられる。

だからこそ、生活の心配をしなくてよくなった今、自分の持つ力を活かして何か人の役に立ちたいという意気込みのようなものが心を煽るのかもしれない、とレイチェルは思っている。
同時にそうすることで、彼女自身が自分に価値を見いだし、自信を持つことにも繋がるのだということを、グラントが理解してくれないことに一抹の寂しさを覚えるのだ。

「ママぁ…」
エミリアが繋いだ母親の手を引っ張った。
「ああ、ごめんなさい、ハニー。パパとお兄ちゃんをお見送りしないといけないわね」
気を取り直したレイチェルは二人の娘と共に玄関ホールへと急ぐ。
「行ってきまーす」
父親と一緒に出掛けていくアレックスが、レイチェルの頬に音を立ててキスをする。
「では、行ってくる」
いつものようにグラントとも軽く口付けを交わすが、レイチェルはそのおざなりなキスに彼の収まらない怒りを感じた。
「帰ってからもう一度話し合おう。いいね」
そういい残して車に乗り込むグラントの背中をレイチェルは無言で見つめていたのだった。




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