翌朝、レイチェルが目覚めた時、ベッドの隣にグラントの姿はなかった。 時計を見るとすでに時刻は11時近く、驚いた彼女は慌てて飛び起きた。 「おはようございます」 家族の姿を探して階下に下りると、執事が声を掛けてきた。 「おはようございます。すっかり寝坊してしまったみたい。グラントと子供たちは?」 執事はにっこりと微笑んだ。 「奥様は、昨夜は遅くまでお仕事だったとうかがっておりますので、グラント様からもう少しゆっくり寝させて差し上げるようにと仰せ付かっております」 「まぁ、グラントがそんなことを?」 「はい。お子様がたは、皆様グラント様とご一緒に敷地内の牧場にお出かけになられました。カレン様にはリンが付いて行っていますから、ご心配なさいませんようにとのことです」 とりあえずコーヒーだけ飲み終えると、レイチェルは再び私室へと戻った。 夫も子供たちもいない屋敷は静かすぎて、落ち着かない感じがする。 本当ならは、今頃は家族5人で出掛けているはずだったのに、昨日のアクシデントで計画がすべて水の泡だ。職務上、仕方がないことだと分かってはいるが、せっかくグラントが貴重な休暇を取れたというのに、自分がそれを潰してしまったことを心苦しく思う。 普通の家庭より父親と接する時間が短いハミルトン家の子供たちも、家族水入らずで過ごせる時間を楽しみにしていたはずだ。 こういう時、自分は本当にこのまま仕事を続けてよいのだろうかと考えてしまう。もちろん家族が一番大事だが、仕事をしているとその責任からは逃れられない以上、どう両者の折り合いをつけていけば良いのかというところに迷いを感じてしまうのだ。 使いっぱなしにしていた浴室を片付け、起き出した時のままに乱れているベッドを直そうとした彼女は、その時になってようやくベッドの側のテーブルに一輪のバラが置かれているのに気が付いた。 真紅の大輪のバラは、グラントが事故にあった時、彼が密かに用意していた花だった。その時大破した車のトランクから助け出された1本のバラは、二人の愛情の証として、枯れるまでずっとグラントの病室に飾られ続けた。 その時から二人の間では、記念日や何か良いことがあると、必ず真っ赤なバラを1本添えることにしている。 そのバラの花束を捧げてプロポーズをするつもりだった、と聞かされている、二人にとって大切な思い出の花だ。 バラの花を手に取ったレイチェルは、その下にある大振りな書類封筒に気が付いた。 これは何かしら? 封筒の表にはレイチェルの宛名が記されている。 封を切って開けてみると、中から出てきたのは分厚い議案書だった。 表紙の標題は 『第3セクターによる新規大規模総合病院の建設議案書』 膨大な書類だけに、すべてを読むことはできなかったが、どうやら今ある診療所を建て直し、診療科目を揃えた上で、病床数を増やして総合病院に格上げするという案が盛り込まれているようだ。その資金を全額ハミルトン・グループから調達する代わりに、郡と市は医師の確保と医療費の補助を保証することを明記してある。特に低所得者層に向けて開かれた病院にするよう、細かく要望が盛り込まれていた。 「ああ、グラント…」 レイチェルはその書類の束を胸に抱きしめた。 この書類の起草日は今日になっている。 まだ草案の段階で、どこにも提出されてはいないだろうが、これが実現すれば設備の整った素晴しい病院ができるだろう。貧しい人たちも支払いを心配して治療を諦めることなく診察を受け続けることができる。 そして何よりも嬉しかったのは、グラントが彼女の働きを認めてくれたということだった。 「奥様、皆様がお戻りになられました」 ノックの音と共に執事がドアの向こうで呼びかけてくる。 「すぐに行きます」 一人ベッドに腰掛けたまま書類を読んでいたレイチェルは、それを聞いてすぐに立ち上がった。子供たちが帰ってきたら一変に賑やかになる。こんなことをしてはいられない。 さて、これから残りの半日、何をして過ごそうか。一緒にランチをとった後、テラスで寝そべってのんびりと寛ぐのも良いだろう。それとも子供たちは家族みんなでどこかに出掛けたがるだろうか。 階段を降りる途中で、彼女の姿を見つけたアレックスの元気な声が聞こえてきた。 「ママ、帰りました!」 愛する夫と3人の子供たち。 彼らの存在があるから、私はこんなに幸せな気持ちでいられるのだとしみじみ思う。 「お帰りなさい。さぁ、お昼ごはんにしましょう。みんな手を洗っていらっしゃい」 「僕が一番」 「お兄ちゃん、ずるい」 アレックスとエミリアがリンに付き添われて室内に駆け込む。その後ろでカレンを抱いたグラントが微笑んでいた。 「もう起きたのか?」 自分を気遣う言葉に、レイチェルは満面の笑みを浮かべる。 「良く眠ったから、すっかり疲れもとれたわ。それに嬉しいことがあったから、眠気もどこかに行っちゃったみたい。ありがとう、あなた」 末娘を抱き取ると、レイチェルは夫の頭を引き寄せ唇を合わせた。 グラントは満足げな顔で彼女を見つめながらそれに熱く応える。 「パパ、ママ遅いよ」 アレックスの急かす声に、二人ははっと我に返り、照れたように互いを見つめた。ここは玄関ホール。人目もあることに気付いたのだ。 「当分二人きりでのんびりと寛ぐ時間は取れそうもないな」 仕方ないと苦笑いを浮かべる夫の顔に、かつてのような孤独の影は見えない。あるのは子供たちに囲まれ、家族にたっぷりの愛情を注ぎ、注がれる男の穏やかな顔だった。 それから一年後。 紆余曲折を経て、新しい病院の起工式が執り行われた。 結局、病院の直接的な管理運営は市が行うことになったが、その事業費のほぼ全額をハミルトン・グループが福祉事業の一環として担うことで合意が得られた。 そして、工事の開始から一年半、ついに病院は完成し、今日は関係者を招いての落成記念パーティーが開かれた。 病院の名は生前、福祉活動に熱心だったグラントの祖母にちなんで「グエンドリン・ハミルトン記念病院」と名づけられることに決まった。 これを機に、レイチェルはグエンから受け継いだ遺産の大部分を費やして基金を設立した。家庭の経済的な理由で高等教育を受けられない子女のうち、医療関係の資格を取ることを志す者に対して無償で学費や生活費の補助を行うものだ。 その活動の一環として、病院には看護学校が併設され、後にレイチェルもそこで教鞭をとることとなる。 「ねぇ、グラント…」 その夜、子供たちが寝静まった後で、夫婦は静かに語り合っていた。 「せっかく新しい病院が完成したのだけれど、私はあまり長くは勤められないかもしれないわ」 グラントは訝しい顔をして妻を見つめた。 「一応君の希望を聞いて、上のポジションには就けなかったが…」 病院を開設するに当たり、レイチェルを現場の管理職扱いにしないかという市の当局から打診があったのだ。もちろん、設立に尽力したハミルトン家の当主の妻であるという殊遇があってのことで、レイチェルは即座にそれを断った経緯があった。 「そういうことではないの。実はね…」 グラントの耳元で囁いたレイチェルの言葉に、それまで眉を顰めていたグラントが一変に破顔する。 「本当か?」 「ええ、確かよ。今日ちゃんと診察してもらってきたの。今3ヶ月目に入ったところだから、多分あと半年もすれば休職せざるを得ないわ。それから一年は育児に専念したいから、当分仕事はお休みしないと」 「そんなにぎりぎりまで働くつもりなのか」 グラントが信じられないと言う顔をする。 「まぁ、止めても無駄なんだろうな。けれど、くれぐれも無理だけはしないように、元気な子供を産んでくれよ」 それを聞いたレイチェルが彼に優しい笑みを返す。 愛する家族に見守られながら、彼女は自分の進むべき道を見つけ出した。「人のために何かしたい」という、かつて彼女が望んだささやかな願いは、こういう形で結実したのだ。 レイチェルはグラントの胸に頬を寄せると柔らかな声で囁いた。 「ありがとう、あなた。誰よりも愛してるわ」 肩に回された夫の腕の温もりを感じながら、レイチェルは今、ここにある幸せを噛み締めていた。 HOME |