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復讐は甘美な罠 番外編

ささやかな願い  3


レイチェルがやっと帰宅できたのは、深夜近くになってからのことだった。
翌日の勤務がない彼女は、最後のけが人が処置後の受け入れ先に搬送されるまでその場に留まった。常に満床状態の診療所には入院できる空き床がなく、すぐには動かせない重傷者以外は他所に転院させるしかなかったのだ。


すでに屋敷の中は静かで、使用人たちもみなそれぞれ引き上げた後のようだ。
レイチェルは物音をさせないようにそっと玄関を入ると、2階にある夫婦のプライベートエリアへと向かった。

「お帰り」
グラントはまだ起きていた。寝室の隣にあるリビングで、何か書類を読みながら彼女の帰りを待っていたのだ。
レイチェルは疲れた表情をしながらも、彼に微笑んだ。こうして自分を待っていてくれる人がいるのは幸せだ。しかもそれが愛する男性であれば尚更嬉しいことだった。
「帰りました」
グラントは彼女の方に歩み寄ると、額に唇を落とした。温かな抱擁が心地よくて、レイチェルはほっと身体の力を抜いた。
「遅くなってごめんなさい。子供たちは?」
「私が寝かしつけた。もっとも、カレンは勝手に寝てくれたようなものだが。アレックスとエミリアはなかなか手強かったよ。童話を3冊も読まされた」
その様子を頭に思い浮かべたレイチェルは小さく声を立てて笑った。この大きな体を丸めて、ベッドの端に腰掛けて子供たちに童話を読み聞かせる夫の姿を想像したのだ。

「疲れた顔をしている。何か食べたいものはあるかい?」
尋ねられたレイチェルは首を横に振った。夕方にスタッフが差し入れてくれたサンドイッチを一切れ摘んでからは何も口にしていないが、今は空腹よりも疲労が上回っていて食欲がわかない。
「今はいいわ。それよりもシャワーを浴びてすっきりしたいから」


寝室と続きになっている浴室に入ると、レイチェルは壁面の大きな鏡をのぞきこんだ。朝、出勤する時に軽くしていた化粧はとっくに剥げ落ちていて、髪はぼさぼさ、目の下には隈ができかかっている。
「我ながら、ひどい顔だわ」
一日中動き回ったお陰で、心身ともに疲労の限界だった。
洗面台に身体を預けて目をやった先には大きなバスタブがあるが、それに湯を張るだけの気力がない。疲れた身体を動かすのが億劫で、腕も足もだるく、立っているのがやっとといった有様だ。
だが、疲れきった身体とは裏腹に、彼女の心の中は久しぶりの高揚感が溢れていた。持てる力をすべて出し切った今日一日の働きは、かつては自分がどれだけ過酷な条件の下に置かれても、それを克服できたことを思い出させてくれたのだ。一人でも多くの患者を救えたという達成感は、医療の現場で働くものにしか味わえないものだろう。

とは言え、やはり疲労はピークに達していた。
重い身体を動かして何とか服を脱ぎシャワーブースに入ると、レイチェルは思い切りコックを捻った。頭上から凝り固まった身体を伝い流れ落ちる湯が心地よく、レイチェルは溜息を漏らす。彼女はしばらく身動きもしないで目を閉じたまま、湯に身体を打たれるに任せていた。

「レイチェル」
呼びかけられると同時に腕を引かれた反動で、後ろに倒れこみそうになった。
ふらつきながら肩越しに声がした方を見ると、いつの間にブースに入ってきていたのか、グラントが彼女の背中のすぐ後ろに立っていた。
それも一糸纏わぬ姿で。
30代も半ばになったグラントだが、相変わらず逞しい体つきをしている。左腕を失ったことで彼の魅力を損なったということはない。いや、むしろ事故後にそれを補うべく鍛えた肩や背中の筋肉の素晴しさは以前よりも増しているようだ。

「グラント、驚かさないで…」
片腕に抱きとめられながら、レイチェルは彼の胸に背中を寄せた。
「立ったまま眠ってしまいそうに見えたんだ。ほら、洗ってあげるからこっちを向いて」
グラントは妻と体の位置を入れ替えると、シャワーの飛沫を自分の大きな体で遮りながら器用に片手で石鹸を泡立てる。 泡の付いた手が、身体を撫でるように滑っていくのを感じながら、レイチェルは目を閉じてグラントにされるがままになっていた。

指先が、時折敏感な場所を掠めるたびに息を詰めるが、彼はそこに触れてくることなく、わざと避けるように手を動かしている。レイチェルは何度も呻き声をあげそうになるのを、唇を噛み締めて堪えた。
グラントの手が身体から離れるのを感じた彼女が薄目を開けると、目の前の夫は厳つい顔に悪戯っぽい笑いを浮かべていた。
「なにやら今夜は随分感じているようだね。腰が淫らに揺れている」
言い当てられたレイチェルが赤くなりながら太腿を摺り合わせると、グラントは声を出して笑った。その様子を見たレイチェルは彼を軽く睨んだ。
「あなただって」

負けじと彼女が夫の方へ手を伸ばし、高まりつつあった彼自身を捕らえる。彼女の思わぬ反撃にグラントは笑うどころではなくなり、今度が彼の方が呻き声をあげた。
「やってくれたな…」
余裕を無くしたグラントに壁に押し付けられ、片足を抱え上げられたレイチェルは倒れないように彼の首に両手を回した。
ゆっくりと入ってくる彼自身に貫かれながら、レイチェルは甘い吐息を漏らす。
流れる湯で滑りやすくなった二つの体を密着させるように、彼女は抱えられた方の足を彼の腰へと回した。
「ああ、グラント…」
二人は文字通りシャワーの飛沫に濡れた唇を合わせながら、互いを貪りあった。
疲れて動かすのも億劫だったはずなのに、身体はどこまでも貪欲に頂上を求めて彼を煽り、その衝撃を飲み込もうと揺れ続ける。
そして終にその頂にたどり着いたレイチェルは、身体を震わせ、歓喜の声をあげながら彼の腕の中へと崩れ落ちた。


自らも追い上げ、軽く動いて名残を納めたグラントが抱きとめた妻を見た時、すでに彼女は意識を手放していた。
だが、その様子は失神というより、どう見ても深い眠りに落ちているようだ。
「レイチェル?」
揺すってはみたものの、軽く寝息まで立てている彼女が目を覚ます気配はない。
「まったく、こんなところで」
グラントは苦笑いすると出しっぱなしになっていたシャワーを止め、彼女を右の肩に担ぎ上げた。
余程疲れていたのだろう、それでもレイチェルは目覚めなかった。
「仕様がないな」
器用にタオルを取り片手で軽く彼女の身体を拭うと、グラントは彼女を担いだまま寝室へと運んだ。

レイチェルをベッドに下ろし、彼女のまだ濡れたままの金色の髪の毛を指先でかき上げる。 その下から現れた妻の顔には、満足げな微笑が浮かんでいた。
それを優しい眼差しで見つめながら、彼もまた満たされた思いに口元を緩めていたのだった。




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