グラントの反対を押し切って復帰を果たしてから、ふた月が過ぎた。 当初の不安をよそに、レイチェルは思いのほか順調に、仕事にも職場に慣れていった。 最初の頃、あの手のこの手で何とか彼女を思いとどまらせようとしたグラントだったが、今では半ば諦めたのか、あまりしつこく言ってくることもなくなった。 レイチェルが母親としての役目や、ハミルトン家の女主人の役割、そしてグラントの妻としての雑事もすべて完璧にこなしている以上、誰も文句が言えないのだ。 その日、グラントは珍しく自宅にいた。 ここひと月ばかり多忙を極めた彼は、ほとんど休みらしい休みが取れなかった。 家族とのんびり過ごそうと思い、やっと2日間の休暇を確保したのだが、生憎とレイチェルの仕事のシフトがそれに合わせられなかったのだ。 「ごめんなさい。今日は午前だけだから、お昼過ぎには戻ってくるから」 翌日は勤務がない彼女はそう言い残すと、子どもたちをグラントに任せて出勤していった。 「パパ。ママ、帰ってこないね」 平日なので、本来ならアレックスは幼稚園に行っているはずだが、先週おたふく風邪に罹り、まだ自宅待機になっている。 少し前からこの風邪が小さい子供の間で流行し始めていて、アレックスの通う幼稚園でも数人罹患した子供がいると聞いているので敢えて問いただすことはしなかったが、グラントは密かにこの病気はレイチェルが病院から持って帰って来たのではないかと疑っていた。 まったく、まだ小さい子供が3人もいるというのに、病気のデパートのような職場に通うなんて。 これから寒くなって、例えばもっと症状の重い、インフルエンザのような病気が流行し始めると病院はたちまち患者たちで溢れかえるだろう。自分が病院というその最前線にいる状態で、彼女はどうやって子供たちを感染から守るつもりだろうか。 「そうだな、そろそろ帰ってきてもよさそうなものだが…」 時計の針はすでに午後1時を回っている。 診療所から屋敷までは、車で20分とかからない距離だ。いつもならばとっくに帰宅していてもおかしくない時間だった。 「グラント様」 先々代から仕えている執事がグラントに小さな紙切れを届ける。 「奥様からでございます」 「レイチェルから?」 『事故のけが人が押し寄せていてすぐに帰ることができません。多分遅くなります。子供たちのことをお願いね。ごめんなさい。――レイチェル』 渡されたメモを読んだグラントは、思わず眉を顰めた。 「どういうことだ?」 「私にもよく分かりかねますが…。ただ、先ほど、1時間くらい前でしたか、市内で大きな列車事故があったようです。ニュースでも流れておりましたから」 急いでグラントがテレビをつけると、ちょうどニュースで事故現場の模様を放送していた。 踏み切りで列車が車に衝突し、その弾みで数両が脱線したらしい。一両目は車に乗り上げるような形で完全に転覆していて、その他の車両もくの字に曲がったり横倒しになったりしている。 現場から中継しているレポーターの話では、この事故で多数のけが人が出ていて、市内数箇所の病院に分かれて収容されているということだった。 「これか…」 レイチェルの勤める診療所は、規模は小さいながら外科の処置のための機能が充実している。それは毎年ハミルトン家がそれらの機材を購入するために多額の寄付を行っているからだ。 実際のところ、もっと金額の大きなお金を使うことも吝かではないのだが、何せ相手は公立の診療所だ。役人や税金との兼ね合いもあって、簡単には話が進まないことが多かった。その上決定的な弱点は、機材だけ大量にあってもそれを使うことのできる医師や看護師、技師が拡充できないところにある。それとて金で解決することは可能だが、彼らが公の機関と雇用関係にある以上、個人がそれを損なうような口出しは慎むべきだと、グラントは考えていた。 「パパ、どうしたの?」 母親が帰ってきたら一緒に出掛けようと楽しみにしていたアレックスが不安げに父親の顔を見上げる。 「アレックス、ママはまだ帰れないようだ。エミリアを連れてドライブにでも行こうか」 夕食の時間になってもレイチェルからの連絡はなかった。 何度も診療所に電話を入れてみたがいつも話中で、状況がまったく掴めない。 グラントは仕方なく、末娘の食事をナニーのリンに任せて上の二人を食卓につけたのだが、いつもは大人しく母親の帰りを待っているエミリアがとうとう愚図り始めた。 「ママ、ママがいいのっ」 半べそで食事に手も付けようとしない娘には、グラントもお手上げだ。 いつもは行儀が悪いと言われるほど口一杯に頬張って食べるアレックスも、今日は何だか食が進まない様子だった。 「パパ。みんなでママを迎えに行こうよ」 アレックスはそう言うと持っていたスプーンを振り上げた。 「ママだって、僕たちが行ったら早く帰らなきゃって思うよ、きっと」 辺りに夕闇が迫る頃。 ぐずぐずと泣き止まないエミリアと、勢いづいたアレックスに押し切られて、グラントは渋々ながら車を診療所へと走らせていた。 片方の手だけで運転できるよう改造された父親の車の後部座席のジュニアシートで、アレックスはいつものように尊敬の眼差しで父親のハンドル捌きをじっと見ている。同じくチャイルドシートに座らされたエミリアも何とか泣き止んで窓の外を流れる景色に見入っていた。 「いいかい、二人とも。迷子にならないように、絶対にパパから離れないこと。それにママはまだお仕事をしているんだから、騒いだりしてもいけない。わかったかい?」 何とか駐車場に車を停めると、グラントはエミリアを右腕に抱き、アレックスに左側のシャツの袖を掴ませて、報道陣や警察関係者、それに安否を気遣う家族でごった返す診療所の玄関へと向かった。 入口からのぞいた病院の中は、まだ混乱が収まらず、雑然とした雰囲気が漂っていた。 元々少ないベッドはすでに満床状態で、処置用のストレッチャーや廊下の長いすにまで、処置を待つ人が溢れかえっている。事故から既に6時間以上が経つが、まだ次々と救出された人が搬送されてきているようだ。 あちこちからけが人の呻き声や啜り泣きが聞こえてくる。その重苦しい雰囲気に怯えたエミリアが、父親の首に縋り付いた。 「…パパぁ」 いつもは活発なアレックスでさえ、グラントのシャツの袖を握り締めたまま、側を離れようともしない。 グラント本人も、この状況に困惑していた。 大きな事故だということを知ってはいたが、こんな小さな診療所にここまで多くの人が運び込まれたとは思ってもいなかったのだ。 「あ、ママだ!」 アレックスが指差す方を見ると、レイチェルが処置室から空のストレッチャーを引いて出てくるところだった。 白衣の上から掛けたエプロンは血だらけで、その上得体の知れない汚れの染みがあちこちに飛び散っている。ナースキャップから乱れた髪の毛が幾筋かはみ出しているが、それに構う素振りも見せない。 彼女は3人に気付くことなくあちこちを走り回り、けが人たちを順々に選別しながら処置室に運び込んでいく。 その様子は、まさに幼い頃に伝記で読んだ戦場のナイチンゲールの姿さながらだった。 「ママ、格好いい!すごくクールだ」 どこで覚えたのか、アレックスがそんな生意気なセリフを呟いた。 グラントも、実際に白衣を着て仕事をする妻を見るのは初めてのことだが、同じようなことを考えていた。 妻として、そして母親としてのレイチェルも非の打ち所がないが、こうして仕事に打ち込む彼女もまた違った意味での素晴しさがある。 さっきまで父親の首筋に顔を埋めていたエミリアも、真剣な眼差しで母親の働く姿を凝視しているようだった。 そんな二人の我が子の様子を見たグラントは、あることを思いついた。 レイチェルの能力を活かすには、この方法が一番だ。 「さぁ二人とも、邪魔にならないうちに帰ろう。ママはきっと疲れて帰ってくるからね。家でいい子で待っていよう」 アレックスはグラントの大きな体の陰からもう一度母親を見つめると、素直に頷いた。そして急に大人びたような口調でこう言ったのだ。 「そうだね、パパ。ママはとっても忙しそうだ」 HOME |