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Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  9


「君がそう言うのなら。しかし私は……」
その続きが杏には容易に想像がついた。恐らく井川の中に彼女を抱きたいという気持ちが全くないだろうことは彼女にも分かっている。だが、この場で、この状況で彼に否定の言葉を聞かされることは杏のなけなしのプライドが許さなかった。
「だから、義務だと。夫婦としての、私の夫としての務めだと思って下さい」
それを聞いた井川の表情が険しく強張ったように見えた。
「……では、君は私が『夫』だから、ベッドを共にすると?それが夫婦としての義務だから、私に君を抱けというのか?」
杏はその声の冷たさに一瞬怯んだが、それでも唇を噛んで頷いた。
「私にはこの家を背負う義務があります。その責任からは逃れることはできないのですから」
だからこそ、今の杏と桐島の家は井川に縋るしか道はない。たとえそれが彼にとって本意でなくとも。
姉たちが出て行った後、最後に残った自分を救い上げてくれた井川には感謝するべきなのは分かっている。それに幼い頃からずっと彼だけを見つめ、想いを募らせてきた杏は、最初は井川の妻となれただけで素直に嬉しかった。だが、いざ結婚してみると彼が夫どころか保護者のような態度を崩さないとは予想できなかったのだ。
こんなに側に居るのに他人と同じ。
杏は成り行きで彼の妻と言うポジションを手にした。しかしそれゆえにこの関係がいかに不毛なことであるかをも知ってしまった。
「責任と義務、ですか」
こんな状況でその言葉を持ち出すことは卑劣だろう。だが、井川を繋ぎとめるための最後の手段として、これ以上の枷はないのもまた事実だった。
杏だって本当は言ってしまいたかった。
―― あなたが好きだから、だからあなたに抱かれたい、と。
しかしそんなことをすれば、自分に対して微塵も恋愛感情を持たない井川は彼女の気持ちを面倒くさがり、退けるかもしれない。そう思うとその言葉を口にすることすら恐くてできない。
「はい。私たちは夫婦ですから」

杏の答えを聞いた井川の目に読み取れない感情が過る。
「……分かりました。君がそう言うのであれば、私にも異存はありません」



メインベッドルームは井川の書斎から部屋を3つ隔てた場所にあった。
元は祖母が使っていた、庭に面した廊下にそって二間続きだった和室を柚季が譲り受けた際に一部屋の洋間とウォークイン・クローゼットに改造したものだ。
一人で使うことが前提だった柚季が持ち込んだベッドは、新婚の杏用にと再リフォームされた時に処分され、代わりに今では室内にクイーンサイズのベッドが置かれている。
一人寝にはいささか広すぎるベッドの横に立つと、杏は所在なさげに自分の姿を見下ろした。

「何か着ないとそのままでは風邪をひきますよ」
そう促され、下着の上からガウンを羽織った彼女は、入浴を済ませてくるという井川の部屋からここに戻って来た。手には先ほど脱ぎ捨てたナイトドレスがあったが、今さらそれを着こむのもどうかと思い、軽く畳んでクローゼットの籠の中に置く。
初めて夫との夜を過ごそうかというのに、彼女の胸の内にあるのは期待や喜びではなく、不安と虚しさだった。

「義務……か」
そんなものを盾にして自分を抱けだなどと、よく言えたものだと自嘲する。
井川ほどの男性であればそれなりの女性遍歴はあって当然だろうし、彼女よりももっと魅力的な女性を手に入れる機会はいくらでもあるはずだ。一回りも年下で、しかも大した長所もない平凡な杏を彼が欲しがらなかったのは無理からぬことなのかもしれない。

そんなことを考えながらぼんやりと立ち竦んでいた杏の背後でドアが開く音が聞こえた。振り返るとそこにはパジャマを着てこちらを見ている井川の姿があった。
「お待たせしたね」
「いえ……」
こんな時までどことなくビジネスライクな会話をすることに、彼女は笑い出しそうになった。

何て滑稽なの。これが夫婦の、寝室での会話ですって?

だが、今の二人の状況ではこうなっても仕方がないのだ。これが彼らの現実なのだから。
「では、こちらへ」
睦言の一つもなくベッドへと誘われた杏は、彼の顔を直視することができず目を伏せる。
もとより男性経験が皆無な彼女はこんな時どうすればよいのか分からない。ただ今は井川に促されるままに、操り人形のように動くだけで精一杯だ。
先に床に入るように言われ、ガウンを脱いでおずおずと横たわった杏の目に、こちらに背を向けてベッドの側で立ったままパジャマの上着を脱ぎ捨てる井川の姿が映る。それはモデルや俳優や、そういった男性たちが写真やテレビの画面越しに見せるようなものではない、生身の男の体だ。そこにあるのは動く筋肉だけでなく、背中にあるほくろや傷の一つまでもが妙に艶めかしくリアルなものだった。
目が離せない。
杏は半身になったまま彼の一挙一動を凝視していた。そんな彼女の視線を感じたのか、井川はこちらをちらりと振り返ると薄く笑いを浮かべた。
「そんなにじっと見つめなくても」
井川に指摘されてはっとした杏は、顔を赤らめながら無理やり視線を引き剥がすと体ごと彼に背を向ける。そんな彼女の背後にあるマットレスが歪み、彼が隣りに入ってくるのを感じた。一瞬体を強張らせた杏に、後ろから伸びてきた腕が巻きつく。
「どうしましたか?」
背中に感じる体温と耳元に低く響く囁きに、杏の心拍が跳ね上がる。剰えパニックを起こしかけた彼女は、首を振りながら側にあった枕に深く顔を沈めた。
「嫌なら止めますよ」
くぐもって聞こえてきた彼の声に、杏は思わず顔を上げる。
「今ならまだ、引き返すこともできる」
だが、それは彼女が今一番避けたいことだ。恥もプライドもかなぐり捨てて、せっかくここまでたどりついたというのに、もしもここで終わってしまったら、これから先自分はどうすればよいのか。
「嫌、それだけは絶対に」
杏は彼の方に向き直るとその首にしがみ付く。
風呂上りの彼から仄かに香ってくる男性物のローションの香りが鼻を擽る。それが一度は揺るぎかけた彼女の気持ちを引き戻した。
「止めないで」
消え入りそうな囁きを耳にした井川は小さく頷くと彼女を自分の下に組み敷いた。
「杏」
初めて井川に名で呼ばれたことに驚きと嬉しさと、そしてほんの少しの切なさを感じながら、杏は彼の手で下着を剥がされ、生まれたままの姿になっていく。
唇に、瞼に、胸のふくらみに、そして足の間にも自分のものではない体温を感じるたびに、彼女の中で御しきれない熱に喘いだ。
そして遂に彼自身が彼女の中に入り込み始めると、杏は無意識に井川の項に爪を立て、その唇を求めた。初めて体を開かれる痛みも、圧し掛かる体の重みで感じる息苦しさも、もはや彼女の渇望を止めることはできない。杏の呼吸の荒さに気づき、動きを止めようとした井川に抗議するかのように、彼女は自ら腰を浮かせ、彼の太腿に足を巻きつけた。
その衝撃で一気に彼女の奥深くまで分け入った井川は、大きく息をつくとそのまま自らが動き始める。最初はゆっくりと、そして次第にペース早めながら刻む律動は、杏の内側を容赦なく擦りあげ、激しく体を揺さぶった。
外の世界と遮蔽された寝室に、二人の呼吸と体が擦れ合う音だけが生々しく響く。
舌を絡め合う口づけも、食むようになぶられる胸の先も、それをしているのが彼だからこそ沸き起こる快感に違いない。彼を自分の中に迎え入れた時、杏の中で確実に何かが変わった。
それは彼女自身も例えようがない感情で、もう彼を好きだなんて軽い気持ちでは満足できなくなるのを感じた。これが、彼女が今まで知らなかった、誰かを強く愛するという女の業なのかもしれない。

心から愛している。
絶対に彼を失いたくない。

この気持ちを目の前にいる男性(ひと)に伝えることができたら。
だが、今の杏は素直にその言葉を口にする術がない。だからせめてもの想いを込めて、彼女は自分の中で果てた井川の背を両手で強く抱きしめたのだった。




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