杏の言葉を聞いた井川は一瞬驚いたような表情になったが、すぐにいつもの冷静な彼に戻った。 「あなたも大人なのだから、もう添い寝が必要な年ではないでしょう」 茶化したようにそう言う井川に彼女杏は少し苛立ちを感じていた。 もちろん、彼だって杏が言っていることの意味は分かっているはずだ。それでも尚且つ話を適当にはぐらかそうとするその態度が腹立たしいと同時に、そこまで自分は女として認められていないのかと思うと哀しかった。 「私は本気よ」 杏はそう言うと、彼の目の前で羽織っていたガウンを脱ぎ捨てる。そしてその下に身に着けていたシルクのナイトドレスの襟元にあるボタンを外し始めたが、手が震えていて思うように捗らない。 「お嬢さん!?」 それを止めようとする井川の腕をするりとかわした彼女は、ようやく胸のあたりまで緩めたドレスの裾を両手で捲り、一気に頭から引き抜いた。 「お嬢さんお止めなさい、一体何を……」 ブラジャーとパンティだけを身に着けた杏を目の前にして、彼にしては珍しく上ずった声を上げる。 「止めて。私にはちゃんと杏という名前があるのよ」 それでもまだ自分を「お嬢さん」と呼び続ける井川に、杏の中で何かが切れた。 「何でいつまでたっても私は『お嬢さん』のままなの?私はあなたと結婚したのよ。なのにどうしてこんな風に一つ屋根の下で他人みたいに暮らさなければいけないの?」 いつになく感情を露わにする彼女に、井川もまた戸惑いの表情を浮かべている。 「あなたにとって私との結婚が自ら望んだものではない、周囲から押し付けられたものだってことくらい分かっている。でも他に選択肢がないのは私も同じなのよ。だから可能な限りあなたに尽くそう、良い妻になりたい、そう思って結婚したわ。でも……」 いざ夫婦になってみると、桐島の娘である杏が側にいることで井川がその配偶者として認知されること以外には実際のところ彼女が妻としてできることなどほとんど何もなかった。 もちろん、この結婚をお膳立てした父の最大の目論みがそこにあったことは知っている。しかし、外では夫婦として持て囃されてもひとたび家に戻れば当事者である杏の立場はずっと宙ぶらりんのままで、どこにもその気持ちの持って行き場がないのが切なくてたまらない。 だから、せめて井川が自分を抱いてくれていたなら、取り立てて魅力はなくとも一人の女として認めてくれたのなら、杏も何某かの満足感を得られたのかもしれないが、現状ではそれさえも彼に拒まれているのだ。 「私ってそんなに子供っぽくて魅力がない?側に居ても何も感じないくらい、存在感が薄い?そうよね、私はいつだってそうだったもの。柚季姉さまのような淑やかさも、梨果姉さまのような快活な力強さもない。この家の中にいてもいなくても分からないような、本当に味噌っかすだった」 幼い頃にはよく思った。自分はどうでもよい子供だと。 両親、とりわけ父親には双子の兄、穣がいればよかった。一緒に生まれてきた杏はそのおまけで、女の子はすでにいた二人の姉たちで充分間に合っていたのだと。 だが、まさか彼女も自分が結婚した後になっても夫から同じような扱いを受けることになるとは思っていなかった。否、むしろ今度こそ自分を必要としてくれる自分の家庭が作れるものだと心の中で期待していたのだ。 しかし、蓋を開けてみれば結婚とは名ばかりで、彼女の名が井川の名刺の肩書き代わりに使われているだけだった。 「どれだけ……どれだけ待てばあなたは私を自分の妻だと、一人の女だと認めてくれるの?私はこれからどうすればいいの?ねぇ、黙ってないで、何か言って」 ひとしきり思いの丈を吐き出した杏はがっくり項垂れるとぶるりと体を震わせた。それもそのはず、今彼女が身に着けているのは下着だけ。身に纏っていた寝間着やガウンは落とされた形のまま床に固まっている。足元に視線を落とした杏は、それでも何も反応を返してこない井川に落胆しかけた。 もう、彼には何を言っても無駄なんだろうか。 そう思い、諦めかけた彼女の耳に井川の声が飛び込んでくる。 「そんなに夫婦の関係を持ちたいと、私とベッドを共にしたいと……君は本当にそう思っているのか?」 その言葉に驚いた杏は、弾かれたように顔を上げた。 見れば井川はいつになく強張った表情で、じっと彼女のことを見ている。 「一度足を踏み入れたらもう後戻りはできない。それを承知で、それでも私と?」 杏は大きく頷くと、じっと彼の目を見つめた。 彼の瞳の中に、今ようやく見つけ出した微かな情熱の炎が消えてしまうことを恐れながら。 HOME |