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Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  7


こうして身動きが取れない状況のまま、表向きは夫婦、その実他人同士のハウスシェアリング同然という奇妙な結婚生活が始まってから早2ヶ月近くが経つ。
相変わらず井川からはアプローチの気配がなく、杏は自分に女性としての魅力がないのではないかとすら思い始めていた。

その日、ようやくまともな休みが取れた井川と杏、そして安定期に入り外出が自由になった柚季は連れ立って父親の見舞いに訪れていた。
姉妹の父、桐島継春が病に倒れたのは今から二年以上前のことだ。
対外的には彼は肝硬変を患っていることになっているが、実際の病名は癌で、その上すでにステージ的にもかなり進んでおり、他の臓器にまで転移が認められる状態だ。発病以来ずっと金に糸目を付けず、治療を続けていた継春だったが、思ったように成果が上がらないまま現在に至っている。
今入院している病院も、数か月前に高名な医師を頼って転院したのだが、見立てではすでに完治は不可能とのことで、剰え余命宣告まで受けていた。

継春がいるのは数年前に新設された病棟の上階にある特別室だ。そこは医療設備が整っているのはもちろんのこと、付き添いの家族が使う家具や調度品まで完備されていて、父はその部屋を半年近くも貸切状態で使っている。
病室の引き戸を開けると、入口との仕切りカーテンの間から僅かにリクライニングさせたベッドの上で横になっている父親と、数日前からここに泊まり込んでいる母親の姿が目に入ってきた。
「あら、二人とも来てくれたのね。それに井川さんも」
母親の美咲は座っていた椅子から立ち上がると、入口近くに立っていた三人を部屋の中央まで招き入れ、ベッドの側へと促した。
父親は眠っているのか、人が近づいてきても目を閉じたままでほとんど反応を示さない。数日前から容体は目に見えて悪化し続けていて、今では一日の大半がこのような様子だということだった。
「今はお薬が効いているのだと思うの。ただ、時折目が覚めても意識が混濁した状態で言うことが支離滅裂だし、ろれつが回らなくて、何を言いたいのかさっぱり分からなくて」
疲労を滲ませた母親の言を耳にしながら、杏は思わず側にいた井川の腕に縋りついた。
彼女は今までこれほど弱々しい父親を見たことがなかった。嘗てワンマンで身勝手だった支配者としての面影はどこにもなく、そこにあるのはただ、死を前にした無力な人間の姿だったからだ。
隣りにいた柚季も同じように感じたのか、小さく息を呑むと目を閉じて項垂れた。
「お父様がこんなになっても、梨果は連絡ひとつ寄越さないのよ」
姉の方を見ていた杏は、その言葉にはっとしたように母親を振り返った。
「何度も電話したわ。それに園田さんにもお願いして、何とか連れて来てもらえないかと頼んだのだけれど……」
梨果は頑として父親の見舞いに来ることを拒んでいるそうだ。
母親としては、夫の命あるうちに娘との和解を望んでいる。それは親としてはある意味当然の感情だろうが、当の梨果はそれさえも受け付けようとはしなかった。
何ゆえそれほどまでに根深い遺恨と確執が生じたのかは杏には分からない。ただ、一度崩れてしまった関係はそう簡単には元に戻らないようで、それもまた血の繋がった似た者同士の親子であるが故なのかもしれない。
こうして母親の愚痴は延々と続き、最後には半ば恨み節の様相だ。側で聞いていた姉妹だけでなくその場に居合わせた井川も同じように硬く複雑な表情を浮かべている。それを見た杏は、掴んでいた腕を外し、彼の顔を力なく見上げた。
井川は梨果のことに関しては特にこういう反応を見せることが多い。
それはそうだろう。本当ならば、ここに彼と一緒に居るのは自分ではなく、姉の方だったかもしれないのだから。

井川が姉に対して何某かの感情を持ち続けていることは杏だけでなく父親も気づいていたはずだ。それが何時、どういう切欠で芽生えたものかは定かではないが、梨果と両親の亀裂が決定的になってからも変わることはなかったように思う。
だから父は、自分には全く利益にならないと分かっていながら梨果と園田の結婚を後押ししたのだ。
井川に姉への未練を完全に断ち切らせるために。
梨果が独身のままだと後々相続の問題が発生する可能性があるだけでなく、彼自身の気持ちもいつまでも踏ん切りがつかなかったに違いない。父は梨果を家から完全に放逐することで、燻り続ける井川の思いに引導を渡した、といっても過言ではないだろう。
彼を桐島に完全に取り込むにはまずそこから解決しなくてはならなかったし、またそうしなくては二人の関係は前に進めなかった。それは杏にも分かっていたが、一方で強引に封じられた彼の心中を思うと手放しで素直に喜べなかったのは本当だ。
しかしそれまでがどうあろうと、現実に杏と井川は結婚してしまった。夫婦となった二人には、望もうが望むまいが周囲は多くのものを求めてくる。

そう、既に賽は投げられたのだ。
もう後戻りはできない。



家に帰った杏は、その夜遅くに井川の書斎の前に立った。
ドアをノックしようと軽く握った右手が微かに震えている。結婚式の翌朝、彼を起こそうとここに来た時とは全く違う緊張感に、気が付けば手だけでなく体全体が慄いていた。
ゆっくりと、しかし自分の迷いを振り切るように杏は目の前のドアを軽く叩く。二度目にノックした後、中から返事があり、ドアが開いた。
そこに立つ杏の全身から発せられている緊張が伝わったのか、井川は訝しげな様子で彼女を見ている。
「……どうした?」
杏はそれには答えず、彼の側をすり抜けて中に入ると、部屋の中央にあるソファーの向こうに回った。
「お嬢さん?もう夜も遅い時間だ。何かあったのなら……」
追いかけてきた井川の口を指先で押さえて言いかけた言葉を遮ると、彼女は彼の顔を見上げた。
「井川さん、お願いがあります」
「何だい?言ってごらん」
いつもと違う彼女の様子に、井川も何か感じ取ったようだ。しかし、それでもまだ彼の言葉に自分を子ども扱いし宥めるような響きが感じられ、唇を噛みしめる。そして彼の目を見ながら意を決した杏は、その思いを吐き出すように訴えた。

「一緒に……今夜から私の隣りで寝て欲しいんです。私たちの、夫婦の寝室にあるベッドで」




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