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Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  6


翌月の初め、杏のもとに一本の電話が入る。それは実家に顔を見せに来ていた長姉の柚季からのものだった。
「こっちにも寄りたい?ええ、いいわよ。私は暇にしているし」
実際のところ先月の末で会社を辞した杏は、日中は特に暇で仕方がなく、一人で過ごす時間を持て余していた。
井川は相変わらずの多忙ぶりで、朝出かけると夜遅くまで帰って来ない。平日はほぼ放置状態の新妻、杏の手前もあってか週末は無理をして何とか週に一日は休むようにしているようだが、それでも半日くらいは自室に籠って持ち帰った仕事をしている有様だ。
結果的に自由になる時間はあまり取れないので、近くのお店で外食をするくらいが精一杯で、二人してどこかに遊びに出かけるような機会はほとんどないといえる。
一方で杏と同年代の友人たちのほとんどは仕事をしていて、彼女たちが働いている平日は相手をしてくれる人もいない。今時は世間一般には「お嬢様」と呼ばれる女性たちも家でのほほんと過ごしている方が少数派で、皆何がしかの働き口を持っている者の方が圧倒的に多いのだ。


「お邪魔します……って何か変な感じね」
ほんの数か月前までここの主であった柚季が入って来た玄関で笑う。
「本当に。あれ、今日は神保さんは?一緒じゃないの?」
姉が一人で来たのを見た杏はスリッパを出しながら閉じたドアの向こうをうかがった。
「まさか。彼は私を母屋の前で降ろしてそのまま仕事に戻ったわ」
柚季の夫、神保はホテルチェーンなどを所有している実業家の一族の一人で、現在は本社の経営に携わっている。彼もまた、企業の重役のご多分に漏れず超がつくほど多忙な人だが、冷たそうな外見と違い、時々時間を作っては姉と共に母屋にいる母親や療養中の父親を見舞ったりしていた。
特に先月柚季の妊娠が分かって以来、彼の妻に対する心配性と過保護ぶりは加速する一途で、今日もわざわざ途中で仕事を抜け出して検診の付き添いと送り迎えをしてきたようだった。
「仕事が終わったらまた帰りにここに寄ってくれるつもりみたい。実家で大人しく待ってろって。そんなに心配しなくてもいいと言っているんだけどね。悪阻もそんなにきつくないし、車にだって普通に乗れるんだから、家までなら一人でも充分帰れるのに」
少し困った様子ながらも姉は以前よりずっと幸せそうだ。
キッチンで用意した紅茶を淹れながら、ソファーで寛ぐ柚季がまだ目立たないお腹を優しく撫でるのを見ていた杏の顔にも自然と笑みがこぼれてくる。最初の結婚の際には、杏はまだ学生だったせいか離婚の経緯についてはあまり詳しくは教えてもらえなかった。もちろん周囲の口さがない噂などである程度は知っていたし理解もしていたつもりだったが、同じような立場に自分を置いてみて初めて分かることもあるのだと改めて思う。
そして次姉の梨果夫婦の方も大波乱の結婚披露宴を始めとして最初は紆余曲折があり、一時はどうなることかと周囲をはらはらさせていたが、今は何とか収まる場所に収まった感じだ。
この前梨果と電話で話をした時には相変わらず夫である園田のことを愚痴っていたが、言葉の端々に実際のところは上手くいっているらしいことを窺わせていた。

何か羨ましいなぁ。

二人の姉がそれぞれ良い縁に恵まれ、幸せな結婚生活を送っていることは妹としては喜ばなくてはならないのだろう。しかし、相思相愛の姉たちと自分が今置かれている状況をどうしても比べてしまう杏は、気持ちが沈むのを禁じ得ない。

テーブルに用意した紅茶とお菓子を並べ向かいに座ると、柚季が少しこちらに身を乗り出してくる。
「あら、美味しそう。自分で焼いたの?」
「あ、うん。今は時間だけはたっぷりあるから」
小学生の頃から始めたお菓子作りは杏の趣味の一つだ。
料理の腕はなかなか思うように上がらないが、これにだけは自信がある。とはいえ、特別に教室に通ったことがあるわけでもなく、素人の域を出るようなものではないのだけれど。
社会人になってからは仕事が忙しく、また家に帰っても母親の相手などでなかなか自由がなかったせいで少し遠ざかっていたお菓子作りだが、有り余る時間を消化するには持って来いの趣味だ。
「まだ半分あるからよかったら持って帰って。一人だとなかなか消費できなくて」
「井川さんは召し上がらないの?」
「うん……彼には今、そんな時間もないみたい」
表情の冴えない妹を気遣ってか、突然柚季が話題を変える。
「そういえば、先週お父様のお見舞いに行って来たんでしょう?」
「ええ。お母様と一緒に」
「井川さんは?」
「どうしても都合がつかなくて今回は無理だったわ」
「そう、それでどんな様子だった?」
「良くも悪くもなっていない感じ。でも前より少しお薬が増えているみたいに思ったけど」
柚季は先月来、県外の病院に入院中の父親の見舞いを止められている。ただでさえ不安定な時期に長時間の移動を伴うことや、安易に病院施設に近づくことで風邪などを拾わないようにという周囲からの配慮だった。

ここ一年で気力体力共に格段に弱ってきた父親だが、それでもまだ家族に向かっていろいろと指図をすることだけは忘れていないらしい。
その時の父親の言葉を思い出した杏は姉に気付かれないようにため息を零した。
『早く井川とお前との間の子供の顔が見たい』
父も再婚した長女のお腹に子供が宿っていることは知らされている。しかし彼にとって柚季はあくまでも余所に嫁がせた娘であり、生まれて来る子は外孫になる。対する杏は井川を婿養子に迎えたために彼女が産んだ子は将来桐島の名を継ぐ可能性が高かった。
生まれる前から内外をしっかりと分けて考えているあたり、父親の家に対する執着が窺えるというものだ。この計算高さこそが最も梨果に嫌われる所以であることを本人も理解しているのだろうが、それでも考え方を改める様子はまったくない。
そして父の言葉以上に彼女を落ち込ませたのは、帰宅後にそれを聞いた時の井川の反応の薄さだった。
結婚後、未だ寝室を別にしている彼女たちに子供ができるはずがないのだが、父の督促とも取れる発言にも彼は淡々とした態度を崩さなかった。
勿論杏としても、父親に促されたからといって急に井川が自分と関係を持つようになるなどとは思っていない。だが、世間的にも正式な夫婦となって一ヶ月近く何もないと、さすがに焦りのようなものを感じ始める。
なまじひと月という期間を置いてしまったせいで、今さらどういうアプローチをしたらよいのかを探ることさえ難しくなってきているのだ。

こんなこと、姉さま達には聞けないし。
いくら既婚者だからといっても、かなり天然の入った柚季に夫婦生活のことを相談するのは気が退ける。かといって梨果にこの話をすれば、彼女の攻撃の矛先は間違いなく井川に向くだろう。
杏からすれば、それだけは何としても避けたいところだ。


幼い頃に読んだ童話では、主人公のお姫様たちは王子様との結婚がゴールだった。ハッピーエンドでめでたし、めでたし。
しかし現実にはそこが悩みのスタートだなんて。
何か割り切れないものを感じた杏は、紅茶が入ったカップを手にしたまま、しばらく物思いに耽っていた。




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