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Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  5


杏と井川、かなり年齢差のある二人だが彼女たちの結婚話は昨日今日に出たものではない。もう何年も前から、いずれはそうなるであろうと周囲とそして杏自身も予測していたことだ。
ただ、父親である桐島継春が十年近く前に彼を後継者候補と決めた時点では、まだ杏にそのお鉢が回ってくることはなかった。というのも、その時には彼女のすぐ上の姉、梨果の存在があったからだ。
父親が当初、自分の御眼鏡にかなった井川を梨果の婿として迎え、桐島を継がせる目算だったことは誰の目にも明らかだった。しかし当事者の梨果がそれを嫌い、反発して家を出てしまったせいで、結果としてその話はご破算となった。
その時、まだ中学生だった杏も幾度となく父親と姉の激しいやり取りの現場を見ていたが、さすがにまだ学生の梨果が家出同然で出奔してしまうとは思っていなかったから、正直驚き、戸惑ったものだ。
姉と父親は基本的に物事の考え方が似ている。そのせいか、どちらも感情的になるより理詰めで淡々と相手を攻撃するので傍で聞いていて怖かった覚えがある。そんな梨果の性格はある意味経営者向きで、人の上に立つことができるタイプだといえるだろう。ただ、若い彼女に足りないものがあるとすれば、周りを引っ張っていくだけの求心力と父親のようなカリスマ性ではなかったか。
恐らく父親もそれが分かった上で井川のような男性を梨果の伴侶にと考えたのだろう。
グループの顔を彼に、そして内向きの采配を分担してその一部を梨果に。
しかしそれに納得しない梨果の猛反発で目論見は脆くも崩れ、その後の父子関係は現在まで泥沼の様相を呈している。
後に父親は、最終的に杏を井川に嫁がせることで彼にトップの座を委ねることを決意したが、梨果がなかなか結婚をせず、桐島に留まっていることや杏の若すぎる年齢、それに井川自身の感情的な問題もあり、結局それから何年もの間、結婚話は宙ぶらりんな状態が続いていた。

振り返れば長い付き合いの二人だが、杏が井川と初めて会ったのは、確か中学に上がる前くらいのことだ。
その当時、彼はまだ父付きの秘書になったばかりで、今ほどの切れ者ビジネスマンの雰囲気もなかった。小学生の杏にしてみれば、「背が高くてちょっと格好のいいお兄さん」といった印象だ。
双子の兄の穣は彼のことを後のビジネスパートナーとして紹介されたようだが、幼かった兄妹にとってはそれもまだ何となくずっと先の話でしかなかった。
元々井川は将来後継者となる予定だった穣の側近に、と父が望んだ人間だ。彼自身もその時にはよもや自分が桐島のトップに推されるなどとは思っていなかったに違いない。だが、その後しばらくして穣が早世し、井川は父の懐刀として独自のキャリアを積み上げていくことになる。


十数年前は子供だった杏も、現在24歳になり、社会人生活も二年目に入っている。
長姉の柚季の例に従えば、彼女もとっくに井川と結婚していても何だおかしくはない年齢だ。だがそれに待ったをかけたのは、他ならぬ父、継春の健康問題だった。
ちょうど二年ほど前、父が病に倒れたことで進みかけていた結婚話は一旦白紙に戻された。継春という創業者であり、ワンマンな経営者でもあるトップが突然休養宣言をし、一線を退いたため現場が混乱し、あちこちから横やりが入り始めたからだ。
杏は勢いそのまま結婚してしまっても良いと考えていたのだが、それを拒んだのは井川本人で、とりあえず崩れかけた体制の立て直しが終わるまで話は棚上げとなった。そして2年が過ぎた今もまだ、全社を完全には掌握しきっていない。にもかかわらずここに来て急に彼女との結婚に踏み切った背景には、父の病状悪化とそれに伴う経営権の完全な移譲を急いだことがあげられる。
その所以か井川自身はイマイチ乗り気ではない?と思える節があったが、兎にも角にも杏たちは準備半年足らずというハイスピードでの華燭の典を迎えた、というわけだ。
ただ、さすがにハネムーンは延期せざるを得なかった。父親の容態が微妙な時期ではあるし、何より新たにトップに立つことになった井川が多忙を極めていることが原因だ。それは井川のみならず杏も承諾していることだが、彼との関係に進展を望んでいる杏にとってはみすみす最大のチャンスを逃したことになるのかもしれない。


「私はずっと待っていたんだけどな、プロポーズ」
考えてみれば、周囲にせっつかれ慌てていたせいか、杏は井川から正式な結婚の申し込みを受けた覚えがない。もちろん結納はしたし婚約パーティーなるものも盛大に催した。指輪もしっかりと頂いている。ただ一点、彼からちゃんとしたプロポーズをされていないのだ。
この結婚に父親や家や会社の思惑があったとはいえ、杏は幼い頃からずっと一途に井川のことだけを見つめてきた。しかし彼女も最初は淡い憧れから始まった恋心は実らないものだと諦めていた。それは彼が恐らく将来は姉の夫として、義理の兄という立場になるであろう男性だったからだ。
しかし長じて姉たちが次々に家を離れていったことで、奇しくも杏は桐島の娘の最後の一人となった。その頃の周囲の急激な変化に恐れ戸惑い、途方に暮れる彼女を陰で支え護ってくれたのは他ならぬ井川だった。
柚季のように自分をしなやかに時流に乗せることができず、さりとて梨果のように真っ向から親に立ち向かい、家を捨ててまでその意向に逆らう勇気もなかった杏にとって、井川は桐島家という高く険しく自由のない塔の上から自分を救い出してくれる王子様だった。彼なら、この人なら導かれるままに、この先もずっと一緒に歩いていくことができると、本心から思った時から彼女は井川を異性として欲していた。

果たしてその思いが「愛」かと聞かれれば、今の杏には「多分」としか答えられない。それでも彼女にとって、井川は無条件で自分を預けることができる大事な人だった。




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