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Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  4


翌朝、杏はいつも以上早く起き出した。
もとから朝が弱い性質の彼女は、寝坊が心配で買い足した目覚まし時計を2個とスマホのアラーム機能まで使ったことは内緒だ。
着替えを済ませ、キッチンに向かった彼女は少し緊張しながら朝食の準備を始める。
とはいえ、朝からそんなに凝ったものをテーブルに並べるわけにもいかず、コーヒーと簡単なサラダとゆで卵、そして後でパンをトーストするだけのシンプルなものだ。
それでも慣れない彼女には思いのほか時間がかかってしまい、時計をみるとすでに1時間近くが経っている。
井川は8時前には必ず会社に入っている。そこから通勤にかかる時間を逆算すると、この家を出る時刻まであと30分ほどしか残されていなかった。
「やだ、大変!」
杏は慌ててキッチンを飛び出すと、スリッパで廊下をパタパタ走って井川の書斎兼私室の前まで来た。だが、そこで右手をドアのところに上げたまま動けなくなったのだ。

ノックして開けても良いんだろうか?

彼女は今まで他人を起こした経験がない。
姉妹が家にいた頃でさえ最後までベッドの中でごろごろしているのは杏で、起こしてもらうことはあっても姉たちを起こしに行くことはなかったのだ。
しかし、そんな彼女の迷いを感じ取ったように、ドアが突然目の前で開いた。
「きゃっ」
「……おはようございます。早いですね」
中から現れた井川はすでにワイシャツに着替え、上着を肘に掛けてブリーフケースを片手で下げている。それは平素と変わらない、彼の出勤スタイルだ。ただひとつ違いがあるとすれば、いつもきっちりと櫛を通してある髪の毛が少し逆立っていて、耳のあたりに寝癖と思しき跡がついていることぐらいだった。
「あ、朝ごはんを作ったんですけど、食べる時間はありますか?そんなたいそうなものじゃないし、もし急ぐなら無理しなくても……」
少し遠慮がちにそう口にした杏に、井川は腕時計を見て頷いた。
「いただくよ。せっかく君が早起きして作ってくれたんだからね」
長年家族ぐるみで付き合いのある井川も杏が朝に弱いことは知っている。その彼女が夫となった彼のために用意したものを断れるわけがなかった。
それを聞いた杏は、ぱっと花が咲いたような笑顔を見せる。
「良かった。すぐにパンを焼きますから、井川さんは顔を洗ってきてください」
そう言うと彼女はまたもやスリッパをパタパタいわせながらキッチンに戻って行く。その後ろ姿を目で追いながら、井川は苦笑いを浮かべた。
「そんなに慌てなくても。新婚初日の人間がいつもより遅く出社しても誰も文句は言わないんだけどな」
本来なら彼の働く部署も結婚式の後すぐには新婚旅行に向かうか、さもなくば数日は休暇を取ってゆっくりするのが普通だ。だが、今はそうも言っておれない状況にあり、杏にも大変な思いをさせていることは彼自身、重々承知している。

「君はまだ有給休暇中だったね。私も今日はできるだけ早く帰ってくるつもりだが……」
食卓の向かいに座り、マグカップを手にしていた杏は少し眠たげな目で彼を見た。
「一応お夕飯は用意しておきますね。とはいっても、私が作るものだからあまり期待しないで下さい。それにまだレパートリーも少ないし」
離れに移る際に、一緒に母屋の方から家政婦を一人回そうかという打診があったが、杏本人がそれを断った。というのも、結婚を機に退職することが決まっていた彼女は、それらをすべて自分でやろうという意気込みがあったからだ。
それは今までのお嬢様暮らしで家事は一切他人任せ、自慢にはならないが洗濯でさえ自分ではしなかった杏の、井川との結婚に対する決意表明でもあった。
「もし遅くなるようなら、先に休んでいて下さい。それに朝だって、無理はしなくていいんだよ」
暗に朝食を作らなくても構わないと言われたようで気落ちした杏だが、それでも少し意地になって首を横に振った。
「もう引き継ぎも終わっているし、月末に数日会社に顔を出したらそれで終わりで、今は時間もたっぷりあるから」
配属先は少々特殊だったが一般の社員と同じように働いていた杏は、桐島での有給休暇を消化している真っ最中だ。それさえも、社長の娘としてその振る舞いはどうなのかという声があるのは確かだった。だが彼女は自分の権利はしっかりと主張したかったし、短い社会人生活の中でそれに見合う仕事をしたという自負もあった。
周囲から懐疑的な目を向けられた杏の考えを尊重し、最後に後押しをしてくれたのは他ならぬ井川だ。純粋に彼に好意を抱いているだけでなく、彼の気持ちに応えたいという思いが彼女の中にはある。
「結婚初日から留守にして悪いね。それじゃ行ってくる」
井川はそう言い置くと上着を羽織り、荷物と車の鍵を持って玄関を出て行った。
そこで「いってらっしゃいのキスは?」と言えるはずもなく、杏はただ手を上げて「行ってらっしゃい」と声を掛けるのが精一杯だった。

新婚さんの朝って、もっと甘いものだと思っていたんだけどなぁ。

夫を送り出した杏は、リビングのソファーに向かってダイブするとため息をついた。
結婚しても井川の彼女に対する接し方これまでとあまり変わりがない。もちろん、昨日まで妹のような女の子の立場をキープしていた杏だって、彼が急に豹変して、「今日からお前の夫は自分だ」という態度を取れば戸惑うことは必至だ。
しかしこのままではいつまでたっても知り合いのお兄さん、という関係から前進しないような気がした。ともすれば、それは二人がこの時期に急いで結婚した理由に逆行することにもなりかねない。
「ただでさえ、私が仕事を辞めたのだって、いろいろと憶測を呼んでいるし」
結婚を機に仕事を辞して家庭に入ることになった杏は、俗にいう寿退職の扱いになっている。
しかし、周囲は彼女の一連の動きを井川の立場の確立と、今はまだ未確定の創業家の未来を託すことになる次世代の出現への期待を持っている節がある。
平たく言えば、彼女が一線を退くのは「後継者となる子作りを急いでいるから」というのが専らの見方なのだ。
杏自身も、三十代も半ばの井川の年齢のことも考えて子供を持つのは早い方が良いと思っている。だがこればかりは授かりものだし、彼女が自分でコントロールできることには限界があるのもまた事実だ。
いくら杏が名実ともに夫婦関係の確立を望んでも相手にその気がなければどうにもならない。井川だって、この結婚の経緯を知らぬはずはないが、彼が水を向けてくれない限りは、彼女の方から誘うことなどほぼ不可能だ。
「だって、どうすれば良いか分からないし」
ただでさえ恋愛スキルが低い彼女に、自分より一回りも年上の大人の男性を誘う手管などあるはずがない。
「こりゃ当分は無理かも」
杏はソファーの座面に顔を擦りつけながら呟いた。
井川と結婚したこと以外、何もかもが妙な方向に進んでいるような気がする。
彼との関係も、これからの自分に課せられるであろうことなども。




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