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Chapter V

   躊躇いのラプンツェル  3


自宅についた二人はトランクから荷物を下ろすとそのまま車を帰した。
軽いカバンを手に持った杏が先に玄関のドアを開け、着替えなどの入った大きなバッグを下げた井川がその後に続く。
杏は慣れた様子で次々に部屋の電気とエアコンを点けながらキッチンに入ると、後ろからリビングに入って来た井川に目をやった。
「何か飲む?」
その声と表情に緊張の色を見て取った井川は首を振った。
「いや、今はいい。先に着替えて荷物を片づけることにするよ」
彼はそう言うと床に彼女のキャリーバッグを置き、自分のものが入っているカバンを手にリビングを出ようとした。しかし何かを思いついたようにドアのところで急に足を止めると彼女の方を振り返った。
「今日はお疲れ様でした。随分と疲れたでしょう。今夜から当分、私は書斎の方で休みますから、君も早く寝て下さい」
「は?」
それを聞いた杏は驚いた顔をした。てっきり今夜からは、その……彼と同じ部屋で眠ることになるのだと思い込んでいたからだ。それを見た井川は小さく肩を竦めた。
「いくら互いに10年以上前から知っているとはいえ、今までまったく別々に暮らしていたのに結婚したから即ベッドを共にしろとまでは、私にはとても言えません。第一、私たちには婚約期間はあっても恋愛期間などまったくなかったのですから、それもやむを得ないでしょう」
彼は苦笑いを浮かべると、踵を返してまだ動揺している杏の側に来た。そして片手で彼女の頬を撫でながら頷いた
「またそのうち追々にその必要も出てくるでしょうけど、今はまだそこまで君に無理なことを求めることはしませんから安心してください」
杏がぼんやりと見上げると、そこにあったのは、自分の夫としての彼ではなくそれこそ彼女が小学生の頃からずっと見てきた父の片腕であり、紳士的で模範的な男性の姿だった。
実は彼はまだ子供だった杏にとって、初めて異性を意識させた男性だ。有能だが物静かで理性的で、落ち着いた雰囲気を持った大人の男。思春期を迎える前に彼という男性を知ってしまった彼女は、同年代の男の子たちからいくらアプローチを受けても彼らが子供っぽく見えて仕方がなく、どうしてもお付き合いをする気になれなかったくらいだ。
少し年齢が上の二人の姉たち、特に次姉の梨果は事あるごとに井川と敵対し、警戒心を抱いていた節もうかがえたが、杏は今まで純粋に彼のことを「優しくて格好いいお兄さん」として慕ってきた。
井川も杏に対しては常に穏やかに接してくれて、思いつく限り冷たくあしらわれたことなど一度もない。

「あ、そっ、それじゃぁお風呂ができているから、先に使って」
ショックが収まり、我に返った杏がリビングを出ようとしている背中に向かって声を掛けると、彼は一瞬立ち止まってちらりとこちらを振り返った。
「いえ、私はシャワーで良いから、君が先に入って下さい」
「でも」
「その間私は持って来た私物を整理して、ついでに今日送られてきた分の書類にも少し目を通しておきたいので」
「そ、そう。分かったわ」
井川は杏に頷くと、荷物を持ってドアの向こうに消えた。すぐに廊下に扉が開閉する音が聞こえ、彼が自分用にとあてがわれた書斎へと入って行ったのが分かる。
彼の書斎には事前に本人が持ち込んだ衣料品やパソコンなどが収められており、仮眠用のベッドなども備わっていることから、しばらくは井川の生活の拠点がそこになることは明らかだ。
もちろん、結婚後に杏と一緒に使う予定になっている主寝室にも大型のウォークイン・クローゼットが完備されているが、今のところそこに掛かっているのは彼女のものだけで、彼の衣服は一切収納されていない。
今までの言動から、彼が当面この関係を進展させる気がないことを感じながら、杏は沸き起こる失望感を隠せなかった。


予め今夜の大まかな帰宅時間を知らせておいたので、二人が戻って来る前に母屋の方の家政婦が軽食と風呂の準備をしてくれていた。
杏は一人で使うには広すぎるほどの浴室で、これまた体を伸ばして沈むことができる大きさの湯船に浸かりながらため息を漏らす。
ここは風呂好きだった今は亡き祖母が特別に作らせたものだ。浴槽を始めとして湯桶や腰掛けなどもすべて檜で誂えられていて、離れで使うには勿体ない贅があちらこちらに施されていた。
この離れは祖母が他界してからは誰も入る人がおらず長い間空き家になっていたが、離婚後に柚季が戻ってきた際に一度大規模なリフォームをしていて、隣りのスペースには今風のシャワーブースも備え付けられている。
杏も一人の時にはそこでシャワーを浴びて済ませることが多かったが、今夜は井川もいることから家政婦たちが気を利かせてこちらに湯を張ってくれたようだった。
「はぁ……何か複雑」
想定外の展開に、湯船の端に顎を乗せた杏は、ぼんやりと独り語つ。
本当ならば、今頃は井川とベッドを共にしているはずだった。どこをどう間違えたのか、今日二人は晴れて夫婦になったというのに、その夜から寝室を分け、別々に休むことになろうとは。
ぶうと頬を膨らませた彼女は、体を捻ると湯船に背中を預けながらじゃぶじゃぶと顔を洗った。
そういえば、式の時も、彼は誓いのキスを唇ではなく額にした。あの時親族席にいた人たちや立会いの牧師さんまでもが「おやっ」という顔をしたところを見ると、どうやら疑問を持ったのは彼女だけではなかったらしい。
「私って、いつまでも彼にとっては『小さなお嬢さん』のままなのかなぁ」
井川は日頃、彼女のことを「君」もしくは「お嬢さん」と呼ぶ。
柚季や梨果のことは名前に「さん」づけなのに、なぜか杏に対してだけは「お嬢さん」のまま。それは初対面だった小学生の頃から今までずっと変わっていない。確かにあの時の自分はまだ、見た目も中身も子供だった。だがその頃ならいざ知らず、大人になった今では彼女はそれが大いに不満だった。
しかし、ともすれば自分が彼の横に経つのに相応しいか悩んでいるというのに、面と向かって井川に、自分を大人の女として見て欲しいなどと、恥ずかしくてとても言えない。
「せっかく好きな人のお嫁さんになったのに、何だろう、このモヤモヤ感は」
杏は湯船に背中を預けてお尻を滑らせると、そのまま湯の中にぶくぶくと沈み込む。
自分の周りにゆるくウエーブのかかった茶色い髪の毛がふわふわと浮くのを目の端に留めながら、彼女は心の中でもう何度目かも分からないため息をついたのだった。




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